《じっくり解説》アルミニウス主義とは?

アルミニウス主義とは?

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アルミニウス主義…

16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍したオランダの神学者,アルミニウスに従った神学思想.アルミニウスは,1560年にオランダに生れ,ライデン,バーゼル,ジュネーブの大学で教育を受けた.16世紀のオランダはカルヴァン主義の中心地であったが,アムステルダムの改革派の教会で牧会する間,カルヴァン主義の中でも極端であるが当時正統との評価を受けていたベーズ(ベザ)の「堕落前予定論」(Supralapsarianism)に対する論争が巻き起り,アルミニウスはカルヴァン的予定論に疑問を抱くようになる.もしベーズが言うように,特定の人間が救い/滅びに堕落の前に予定されているとしたら,ある人が滅びに定められるためには罪を欠くことはできないわけであるから,他の聖定より先に神によって罪を犯すことが定められていたことになる.すなわち神は,滅びを定めることで,罪の創始者になってしまう.また,一歩下がって,「堕落後予定論」をとったとしても,神の定めによって個人が救いや滅びに至るとすれば,キリストは常に第二義的存在となり,聖定の陰に隠れてしまう.まして,ある人物を救いに/滅びにという区別は,神の聖潔と愛,神の正義とあわれみ,神の意志と許容との間に根本的な反目があったと推定しないではいられなくなる.アルミニウスは,聖書や初代教父の研究を進めれば進めるほど,個人の救いはいつでも信仰によるのであって,聖定によるのではない,また聖書に予定されているのは,個人の救いか滅びかではなく,罪に染まった人類が「救われる道」—すなわち悔い改めてキリストの十字架の贖いに信頼すること—であると結論した.<復> アルミニウスの死後,彼を支持する人々が,彼の予定論に対する見解を5条項の抗議書にまとめた(このため彼らはレモンストラント派〔抗議派〕と呼ばれるようになった).(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,神の恵みを離れて善を行う力はない.(2)神は誰が信じるか,誰が信じないかをあらかじめ知っており,その予知によって人を救いに予定している.(3)誰でも悔い改めて信じるなら,救われることができるように,キリストの贖いはすべての人を対象としている.(4)恵みは主導権をとって,力を与えて,人を悔い改めと信仰とに導くが,不可抗力的に人に圧力をかけることはない.すなわち,恵みは先行するが強要しない.(5)信仰者であっても,恵みの働きかけにあえて耳を閉すことによって,救われた状態から転落することもあり得る.救いはキリストにあって耐え忍ぶ者に保証される.<復> もちろん,ここで問題になっているのは,単なる予定論に関する解釈の相違ではない.神の主権や恵みが人間の自由意志とどのようにかみ合っているのかという,神学全体に影響する大きなテーマが,論争の根底にある.アルミニウスは,われわれが意志を働かせて努力すれば神のもとに上っていくことができる,とペラギウスのように考えたわけではない.アルミニウスにとって神の恵みは,人間の努力を助ける道具でも薬でもなく,救いの本質である.主権者なる神が愛をもって人間をあわれみ,行動を起さない限り,人間の側に救われる望みはない.人が神の前に義とされ,また義人として歩んでいく時,そこには人的功績のかけらもない.すべてはキリストが獲得して下さった功績によるのであり,同時に,人が自らを施しを受ける者の空の器のごとくに思い,その恩恵を受け取る信仰によるのである.この点において,アルミニウスはカルヴィニストのごとく生き,そして死んだと言えよう.<復> だが,彼は,「神の恵み」の質量を保持するために,人的働きの意義を極限にまで減少させなければならない,とは考えなかった.また,創造者である神の主権が人間との関係において絶対的・不可抗力的な形で行使されなければ主権の意義がないがしろにされるとも考えなかった.確かに,アルミニウスによれば,救いも信仰も人間の功績とは無関係に,キリストの恵みのゆえに与えられる神の賜物である.しかし,その信仰は人が自分で受けて,それを働かせなければ意味はないと言う.先行していく恵みに対して,付いて行くのかそれとも拒むのか,また神の一方的な愛に対して,どのような態度をとり,どのように反応するのかは,人間の責任領域にあると言う.愛や礼拝の世界では,自発的に参加することは,強制的に中に引き込まれるよりはるかにすばらしいという道徳的な原則を,神の主権は否定しない.<復> プロテスタント神学にこうした問題提起がなされたのは,アルミニウスが最初で最後なのではない.ルター派の中でのメランヒトン,英国宗教改革の中でのラティマー,福音リバイバルの中でのウェスリ(ウェスレー),新正統主義の中でのブルンナー,それぞれが,キリストと神の恵みの絶対性を保持しつつも,極端な人力卑下の傾向と格闘してきた.そうした神学の中には,いつもアルミニウスの面影を見ることができる.<復> さて,アルミニアン論争の嵐は,オランダ全土に広がり,政情を揺がすまでに発展していた.そこでドルトに宗教会議が召集され,1618年から翌年にかけての会議に,102名のオランダの保守的カルヴァン主義者と28名の諸外国からの代表が出席したが,いわゆるアルミニウス主義者はわずか13名の出席が許されただけであった.すでにアルミニウス主義者は,教会と国家が信仰表現のある程度の相違を寛容に受け入れるべきであるとの主張のゆえに,反逆罪に定められており,発言も投票も許されないままであった.ドルト会議は,レモンストラント派の5条項をすべて否定する形で,TULIPとして知られる「カルヴィニズムの5特質」を正統的見解として承認し,ドルト信仰規準を定めた.すなわち,(1)堕落後の人間はすべて,全的に腐敗しており,自らの意志で神に仕えることを選び取れない(T_otal depravity—全的堕落),(2)神は,無条件に特定の人間を救いに,特定の人間を破滅に選んでいる(U_nconditional election—無条件的選び),(3)キリストの贖いは,救いに選ばれた者だけのためにある(L_imited atonement—制限的贖罪),(4)予定された人間は,神の恵みを拒否することができない(I_rresistible grace—不可抗的恩恵),(5)いったん予定された人間は,最後まで堅く立って耐え忍び,必ず救われる(Perseverance of the saints—聖徒の堅忍).この五つが,ベルギー信条(1561年)やハイデルベルク教理問答(1563年)とともにオランダ改革派の正統主義の標準となった.<復> 会議後,アルミニウス主義は異端であると弾劾され,H・グローティウス(国際法の父として知られる)などは投獄されるに至った.1625年までは,迫害の波は緩和されたものの,アルミニウス主義はオランダで勢力を伸すことはできなかった.しかし,その影響は外に向かって広がり,17世紀英国では,ロード派の反カルヴァン主義運動に神学的な支援を提供した.もともと英国神学は,大陸宗教改革の極端な思弁を嫌って「中庸」を選び,またエラスムスなどのキリスト教人文主義者の素地があったため,穏健なアルミニアン神学はより適した土壌を得たことになった.1760年代に英国の福音リバイバルの中で,「超カルヴァン主義」とアルミニウス主義の論争は再燃することになる.論争は,カルヴァン派のホウィットフィールド/トップレイディに対するウェスリ(ウェスレー)/J・W・フレッチャーという形をとる.やがて,メソジストが米国で勢力を増していくと,そこでもエドワーズに育てられたカルヴァン主義との論争に発展していく.<復> 「イズム(主義)」というものが論争に巻き込まれると,必ず極端に走る傾向があるように思える.また,時が経過すると,それぞれの主義に名を与えた最初の人物の思想から遠く離れて「主義」だけが一人歩きする危険性があることも覚えておく必要がある.「レモンストラント派」の指導者であったエピスコピウスはアルミニウスのカルヴァン的・福音的主張に忠実であったが,その後,救いにおける人間の役割を強調するあまり,「恵みのみによって」という福音の原則を崩して,アルミニウス主義の中に半ペラギウス主義やペラギウス主義に陥ってしまう者が生れてきたことも確かである.また,反対にドルト会議の結果は,今日も「超カルヴァン主義」の権威ある説として残ってはいるが,論争から離れてしまえば,カルヴァン派の多くが,アルミニアンと同じように行動し,生活していることも事実である.→アルミニウス.<復>〔参考文献〕M・B・ワインクープ『ウェスレアン=アルミニアン神学の基礎』福音文書刊行会,1972;Harrison, A. H. W., The Beginnings of Arminianism to the Synod of Dort, University of London, 1926.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社