《じっくり解説》精神医学とキリスト教とは?

精神医学とキリスト教とは?

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精神医学とキリスト教…

1.現代の教会と精神障害.<復> キリスト教会を訪れる信者や求道者あるいはその家族の中に精神の障害を持ち,苦しんでいる人は少なくない.このような人から,「教会に行ってもなかなか受け入れてもらえない」「患者としてのプライバシーが保てない」といった訴えが出されている.彼らに対して現代の教会がどうかかわるかということは,大きな課題である.<復> これまで,日本の教会は精神障害者の問題に対して積極的に取り組もうとしてこなかったように思われる.そのような状態が続いてきたのは,教会関係者が精神医学や精神医療に関する関心や知識をほとんど持っていなかったために,事態の深刻さに気付いていなかったためではないだろうか.彼らの多くは,健全な信仰を持っていれば,精神的健康は当然与えられるはずだといった安易な考えを持っていたように思われる.しかし,現実には精神障害という重い十字架を担いつつ,なお求道し,あるいは牧会者や信徒として教会共同体に参加している人は多い.さらに病を持つがゆえに,信仰を→持てなくなっている人/・・・・・・・・・・←も少なくない.また,たとえ精神的に健康な信徒であっても,その人の属する家族や職場あるいは学校の中で精神障害者を抱えている人は少なくない.キリスト者はこれらの人々に対して,良き隣人であることが要請されている.このような点を考慮に入れると,現代教会が精神障害者問題に対して今後,積極的に取り組んでいくべき課題は多いと言えよう.<復> 2.聖書と精神障害者.<復> 聖書の中には,現代の精神医学の知識に照らし合せてみても,精神障害に罹患(りかん)していると思われる人がしばしば登場する.旧約聖書ではサウルのケースが有名である(Ⅰサムエル16:14,15).ここでは,「主の霊はサウルを離れ,主からの悪い霊が彼をおびえさせた」と記されており,続いてサウルの家来たちは「神からの悪い霊があなたに臨むとき,その者が琴をひけば,あなたは良くなられるでしょう」と述べている.ここで「おびえる」「良くなる」(新共同訳では「気分を良くする」ということばが使われていることから,サウルの病気は心の病であったと推定される.しかも,こうした精神の病が「主からの」あるいは「神からの」「悪い霊があなたに臨む」と記されているところを見ると,心の病気も究極的には神の支配のもとにあることが示唆される.<復> 新約聖書においても,精神障害に罹患していると思われる人物がしばしば登場する.例えば,「汚れた霊はその人をひきつけさせた」(マルコ1:26),「彼は地面に倒れ,あわを吹きながら,ころげ回った」(マルコ9:20)といった記述は,今日の精神医学の疾病概念を当てはめれば,てんかんを表していると言えよう.また,「足かせや鎖でつながれたが,鎖を引きちぎり,足かせも砕いてしまったからで,だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである」(マルコ5:4)という記事は,精神運動性興奮や錯乱状態を呈する分裂病などのいわゆる精神障害者の病像を想起させる.彼らは,衝動性が強く,自傷・他害の恐れがあるため,恐らく強制的に足枷や鎖で拘束されていたのであろう.このような人々に対して,イエスは真正面から立ち向かい,いやしのわざを行われた.こうしたイエスのいやしのわざは,神の子としての本質である愛に基づくものであって,自己宣伝やおのれの利益を追求するために行われたものではないことを銘記しておく必要がある.<復> イエスの時代においても,心の病は人間の罪に基づく神の刑罰の結果生じたものであるとする考え方が支配的であった.従って,心の病気にかかった人は,汚れ,のろわれたものとして隔離や差別の対象となった.現代に生きるキリスト者は,イエスがこのように社会から疎まれていた精神障害者に対して積極的に救いの手を差し延べられたことを忘れてはならない(マタイ4:23,ルカ6:18).<復> イエスは弟子たちにもいやす力を与えられた(マタイ10:1).このことは,イエスの弟子たちの周囲にも多数の心身を病む人たちがいやしを求めて集まってきたことを示唆している.このような点を考慮に入れると現代の教会共同体も心を病む人たちに対して積極的にかかわる必要があると思われる.<復> 3.精神病者における宗教体験.<復> 精神科医として臨床の場で働き,かつ教会に通っていると,心を病んでいる患者の中にはキリスト教を初め様々な宗教に関心を持っている人が多いことに気付かされる.牧会者に聞いてみると,やはり教会を訪れてくる信者や求道者の中に精神を病んでいる人が少なくないと言う.ここでは,こうした精神病者の宗教体験について触れておきたい.<復> 精神分裂病者の場合は,「自分は神である」「神の霊が自分の身体に憑いている」といった誇大妄想ないし救世主妄想を訴えることが多い.ちなみに分裂病者の場合は,健康な時には全く宗教に興味も関心も持っていなかったにもかかわらず,発病と同時に熱心に教会の門をたたき,症状が改善すると教会から足が遠のくということが少なくない.もちろん,中には病気がきっかけになり求道し洗礼を受けるに至るケースもある.<復> 躁鬱病者は,病状が悪化すると,適度に罪責的になる.神をさばく存在と見なす傾向が強い.つまり,彼らは,人間に対して怒り,敵意を持つ神のイメージに支配され,病的罪責感を持つに至る.彼らにとって,神は,包み,いやし,赦す存在ではあり得ない.このような心理状態にある人に対して,罪を糾弾する説教は,ますます病者を抑鬱的にさせる危険性がある.この点,牧会者は十分注意する必要がある.このような人に対しては,支え,包み,共に苦しむ姿勢が必要である.なお,躁病者は,教会関係者の家に頻繁に訪問したり,電話をかけてきたり,手紙を書いてきたりすることが多い.鬱病相に陥ると,これまで熱心に教会に通って来た人も,教会から足が遠のきがちになる.<復> てんかん患者は,発作の起る前に,意識水準の低下を伴う[ドイツ語]アウラ(Aura)という症状が現れることが多いが,この時に,至福感,恍惚感,宗教的神秘体験などを持つことがある.ドストエーフスキイが自らのアウラ時における宗教体験を作品の中で詳細に記していることはよく知られている.<復> 4.精神病者に対する宣教.<復> これまで,プロテスタント教会は,福音を宣教するに当って,聖書のことばを最大の武器としてきた.聖書のことば以外の方法によってキリストの福音を宣教することは,伝統的な福音理解への挑戦であると考える人も少なくない.<復> 精神医学とキリスト教との関係について考える場合,宣教の方法論を巡って,考慮すべき事柄が存在すると思われる.もちろん,精神病者であっても,たとえそれが部分的であるにせよ聖書のことばを理解する能力を持っている人は多い.しかし,重症の分裂病者,躁鬱病者,老人痴呆者,精神遅滞者,人格障害者などは言葉を理解する能力が著しく低下していると考えられ,神のことばが正しく受け取られない可能性もある.このような人々に対して,キリスト教の宣教は不可能なのであろうか,今後,このような精神障害者に対する対応の仕方を巡ってしっかりとした神学が構築される必要がある.<復> 精神病者に対して,健常者並みの,誠実さや責任感を要求するのは無理であろう.また彼らは判断力や理解力,意志の力なども十分とは言えない.しかし,「私たちは真実でなくても,彼(キリストを指す)は常に真実である」(Ⅱテモテ2:13)とあるような「キリストの真実」と「キリストのかおり」(Ⅱコリント2:15)によって,彼らに伝道することは可能であろう.このようにして,われわれは,精神病者の心の痛みを,教会共同体の痛みとして担っていく必要がある.<復> 5.教会と精神科医との協力.<復> 教会の聖職者や信徒は,心を病む人々に対して,熱心にかかわるか,あるいは自分の守備範囲でないという理由で一切かかわりを持とうとしないか,どちらかの対応をとる.<復> 彼らに熱心にかかわろうとする聖職者は,牧会カウンセリングの知識や技術を持っていることが多い.こうした人たちの努力によって,多くの心の悩める人々が支えられている.このように心の悩める人々にかかわろうとする者は最低限の精神医学の知識を修得する必要がある.なぜなら,病勢が悪化しているのに,無知のゆえになお病者をかかえ込んでいると自傷・他害の危険性があるからである.手に負えないとわかった時は,精神科医と協力すべきであろう.<復> さらに,家庭や病院や教会で見捨てられ,しかもなおいやしと救いをキリストに求めている人々のために「駆け込み寺」的な機能を持つ施設や彼らを援助する人々が必要であると考える.→心理学とキリスト教,カウンセリング.<復>〔参考文献〕柏木哲夫『人と心の理解』『病める心の理解』いのちのことば社(1981,1982).(平山正実)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社