《じっくり解説》聖霊の内的証言とは?

聖霊の内的証言とは?

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聖霊の内的証言…

プロテスタント教義学でラテン語のtestimonium internum Spiritus Sanctiと言えば,啓示された神のことばとしての聖書の権威を信仰者の内に確信させる聖霊の働きを指すのが通常であるが,日本語の「聖霊の内的あかし」,あるいは英語のinternal testimony (inward witness) of the Holy Spiritという用語は通例では,「私たちが神の子どもであることは,御霊ご自身が,私たちの霊とともに,あかししてくださいます」(ローマ8:16)という聖句に基づいて,救われて神の子供とされている事実を信仰者の内に直接的に確証させる聖霊の働きを指す.<復> そもそも,後者の意味での「聖霊の内的証言」の教理は,宗教改革の本質的問題に根差していた.ルターの宗教改革は,約束された確証を求めながらも実際には確証が得られない不安から始まったと言っても過言ではない.「私は,一生懸命,規則に従って生活しようと試みた.様々な罪を悔いて,告白して,数えて,そしてしばしば告白を繰り返し,それに当てられた悔い改めの業を真剣に実行した.しかしそれでも,私の良心に確証を与えることはできなかった.逆に常に疑って言ったものだ.『おまえは,それを正しく行うことができない.おまえの悔いは十分ではない.あの問題も告白し忘れて…』と」(W. A.,40,1,15).礼典主義・道徳主義・神秘主義に一生懸命になればなるほど,確信は揺らいだ.誰も救いに関してここまでやれば十分だ,これだけやれば安心だという域に達することはできない.いくら善行を重ね苦行に精を出しても,確証どころか,逆に不安が倍加されるだけであった.そんな時である.十字架の福音の本当の意味が彼の心を打った.それを次のように告白している.「私は夜・昼となく考えを巡らし,とうとう神の義と『義人は信仰によって生きる』という聖句の結び目を理解した.その時,神の義とは,恵みとあわれみのゆえに,神がわれわれを義として下さるという意味の義を指していることを捕えた.それによって,私は生れ変って,天国の門をくぐったと感じた」(「前掲書」54,185).ルターはこれ以降,Deus Loquens「語りかける神」という表現をとるが,まさに自己絶望の果てで彼が魂の奥底に聞いたのは,「子よ.あなたの罪は赦されました」(マルコ2:5),「娘よ.あなたの信仰があなたを直したのです」(同5:34)という神の語りかけであった.しかも,それは功績・達成・努力といった外的な基準には支えられない,聖霊による内的・直接的な証言であった.<復> カルヴァンは同じことを,〈信仰〉という概念を定義しながら次のように説明している.「さて,ここにおいて信仰の完全な定義を手にしたわけである.それは,神の我々に対する恵みを確実に,確かに知ることである.そのことは,キリストにある恵みに満ちた約束が真実であることに基づいて,聖霊の働きによって我々の思考に啓示され,我々の心に確証されるのである」(『キリスト教綱要』3:2:7).後のJ・ウェスリ(ウェスレー)も同じ線に沿って,聖霊の内的証言を〈信仰による義認〉の体験と結び付けている.アルダスゲイトにおいてルターの塔の体験と類似した確信を得た彼は,その日のことを次のように書き留めている.「私はキリストを,ただ一人の救主であるキリストを信じた,と感じた.またキリストは,私の罪を,私の罪さえも取り去って,私を罪と死との律法から救ってくださったという確証が与えられた」.それは,データを論理的に整理することで得られる,自分は救われているであろうという確証とは性質を異にしていた.それは,聖霊の内的なあかしによるもの,すなわち「キリストを信じる信仰によって神が心の内に働いて起してくださる変化」であった(日誌,1738年5月24日,§14).聖霊による内的なあかしは,特異な感情体験でも神秘的体験でも特別な啓示でもない.それは,初代教会の時代に限らずいつの時代にも,キリストに現された神の愛を信仰によって確信した者に約束された恵みの特権であり,その意味で内的証言は普通の(ordinary/common)賜物であるということを,ウェスリは強調した.<復> だが,その後のルター派とカルヴァン派の伝統において〈聖霊による確証〉の教理が十分な発展を見ていないことは事実である.信仰を軸にした内的確証の教理は,後期ルターの濃厚な礼典主義の陰に隠れてしまっている.また信仰が信頼(fiducia)よりも合意(assensus)を意味するものへと移行していったことが,プロテスタント・スコラ主義への道を開き,ダイナミックな信仰体験の世界は教義の陰に退いてしまった.ここにおいて,17—18世紀のプロテスタント正統主義にあっては,聖霊が聖書を神のことばであると信仰者の内に確証させるという意味でのtestimonium internum Spiritus Sanctiという教理が使われるようになった.このラテン語を用いて教理の確立に努めたのは,カルヴァンであった(『キリスト教綱要』1:7‐9).聖書が神のことばであるという決定的な証明は,理性によるのでも教会の権威によるのでもなく,まして個人の主観的な確信によるのでもない.それは,信じる者の心に聖霊が内的に確信させることで,よって,聖書が神の啓示であるということを信仰を持たない人に証明することはできないと彼は言う.言うまでもなく,これはⅠコリント2:12‐16におけるパウロの論理である(参照ヨハネ16:13‐15,エペソ1:17,18,Ⅰテサロニケ1:5,Ⅰヨハネ2:20,27,『ウェストミンスター信仰告白』1:5).<復> 他方,救いを確証させるという意味での聖霊の内的証言の教理は,ルター派から派生したシュペーナー(Philipp Spener)のドイツ敬虔主義に引き継がれ,シュペーナーからフランケ(Francke),次にモラビア派のツィンツェンドルフ(Zinzendorf)へと様々に発展していく.その中で,この教理の最も健全な解明はウェスリに見出される.教理の「健全さ」が要求されている理由は,聖霊に関する教理がややもすると教会史の中で様々な熱狂的運動を引き起してきた事実にある.聖霊の内的あかしが強調される時,そうした「神の声」がいつしか主観的勢いに取って代られ,独断的態度に染まった熱狂に成り下がる危険性は常に存在するわけである.ウェスリは〈聖霊による内的証言〉が熱狂に陥らないために,幾つかの支柱を組み込んだ.聖霊が個人の魂に直接的に働きかけてきたと感じる(確信する)時,それが正当なものであるかどうか,常に聖書という啓示の客観的尺度で検証されなければならない.そして,それが真実に聖霊体験であるなら,必ずみことばと一致しているはずだと言う.さらに聖書に加えて彼は理性の役割を尊重し,そもそも神が人間を理性的存在として創造された限り,聖霊の内的な働きかけはわれわれの感情面だけでなく,理解力や意志の領域に影響を及ぼすものだとして,感情主義を是正した(The Works of John Wesley, Vol.10, p.181, Baker).そこでウェスリは,直接的なあかしと思われるものを理性を用いて客観的に検証し,確証が独断的思い込みや妄想でないことを明確にすべきことを教えている.聖書に想定されているそうした客観的基準は,大別して,(1)過去の罪を悔い改めた心,(2)新生による人生全体の変革,(3)愛,喜び,平安,寛容,親切,善意,誠実,柔和,自制といった御霊の実,(4)神の戒めに従った生活,であると言う(「前掲書」Vol.5, pp.117—20).これらの基準はすべて聖霊が働いて産出する実であるが,自分がこの実を持っているか否かを調べることで,聖霊による直接的なあかしの真偽を見分けることができる.さらに,直接的な確証が不安定に揺らいだり薄れたりしている場合,客観的な基盤から御霊の実を調べることで自己の信仰を支えることができると言う.これが,自己吟味による〈われわれ自身の霊の証し〉(the witness of our own spirits)である.ウェスリの目標は,本人が強調しているように,直接的な聖霊のあかしを否定する理性主義(rationalists)と,内的あかしへ疾走して客観的啓示と理性とを否定する熱狂主義者(enthusiasts)との,二つの極端の中道を進んで行くことであった.彼は,その中道が,パウロの「私たちが神の子どもであることは,御霊ご自身が,私たちの霊とともに,あかししてくださいます」(ローマ8:16)という二つのあかしの共同作業にあると主張したのである.→霊的照明,聖霊・聖霊論,あかし.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社