《じっくり解説》栄光とは?

栄光とは?

栄光…

1.用語.<復> 聖書の中で,栄光はおもにヘブル語のカーボードゥと,ギリシヤ語のドクサによって表されている.これらのことばは,人間の名誉や名声,王や王国の栄華などを表すこともあるが,おもに神の栄光を表す.<復> 2.神の栄光.<復> 神の栄光とは,神の本質と属性の輝きのことである.神は人格的な方であるから,その栄光も愛,恵み,まこと,知恵,力,義,聖さなどにかかわる人格的なものである.また,神は無限な方であるから,その栄光も無限である.それは神の存在に固有なものであり,神の臨在とみわざにおいて現される.<復> 人は神の無限の栄光を見ることはできない(Ⅰテモテ6:15,16.参照出エジプト33:18,20).人はただ,御子を通して啓示された神の栄光を見ることができる(ヨハネ1:18,Ⅱコリント4:6,ヘブル1:3.参照コロサイ2:9).<復> 神の栄光が神に固有なものであり,無限なものであるから,神は礼拝と賛美を受けるにふさわしい.またそうであるから,人は偶像を作ってはならない(出エジプト20:4,イザヤ40:18,42:8).偶像は,神の無限の栄光を汚すものであり(詩篇106:20,ローマ1:23),人の目を神の栄光の現れからそらすものである(Ⅱコリント4:4).<復> 3.神の栄光の啓示.<復> 神の栄光を啓示するのは御子である.御子は創造のみわざの遂行者である(ヨハネ1:3,コロサイ1:16,ヘブル1:2).従って,創造のみわざに現れている神の栄光(詩篇19:1,ローマ1:20)は,御子の働きによって現されたものである.同様に,御子は救済のみわざの遂行者であり,救済のみわざに現れる神の栄光の啓示者である(ヨハネ17:4,Ⅱコリント4:4).<復> 聖書の中では,神の自己啓示と神の栄光の現れとは一つのことである.従って,人が神との出会いと交わりを経験することは,神の栄光に接することなしには起らない.このことは,幾つかのことによって示されている.その一つは神の顕現である(出エジプト3:1‐6,19:16,34:5‐7,ヨシュア5:13‐15,士師6:22,23,13:19‐23,イザヤ6:1‐4等).<復> この神の顕現が永続化した形において示されたのが,聖所を中心とする幕屋と神殿である.聖所は,栄光の主がその民とともにいて下さることを,具体的な形で示すものである(出エジプト15:17,25:8).その中心は契約の箱であり,栄光の主の臨在が契約的なものであることを示している.そのふたである贖いのふたの両端には,主の臨在の栄光を守るケルビムが置かれ,主はこのケルビムの間から語られた(出エジプト25:10‐22).この幕屋が完成した時,主の栄光が幕屋に満ちた.それは,主の臨在の雲(シェキーナーの雲)がそこにとどまることによった(出エジプト40:34,35).同様なことは,主の神殿においても起った(Ⅰ列王8:10,11.参照エゼキエル9:3,10:4).主の神殿は,主の栄光の住まう所とも呼ばれている(詩篇26:8).<復> 幕屋と神殿はまた,主の栄光の臨在の御前に立って主との交わりを持つ者は,罪の贖いをし,聖なる装束を着なければならないことを示している(出エジプト28,29章).聖なる装束は栄光と美を表す(同28:2).これは主の栄光の御前に立つ者がその栄光にふさわしく整えられなければならないことを示している.<復> 旧約の時代に見られた神の顕現と,聖所に臨在された主の栄光の現れは,御子イエス・キリストの受肉において成就した.御子は「神の栄光の輝き,また神の本質の完全な現われであり」(ヘブル1:3),そのうちには「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っている」(コロサイ2:9).その受肉は神の顕現の頂点であり,主の栄光の宿る幕屋の成就である(ヨハネ1:14.「住まわれた」は,直訳で「幕屋を張られた」).主が御自分の民とともにおられることを示す幕屋の意味も,インマヌエルなる方(マタイ1:23)において成就した.<復> 御子の受肉は主の栄光の臨在の成就であるだけでなく,御自分の民を栄光の御前に立つにふさわしく整える恵みの成就でもある.それはキリストの十字架の死による罪の贖いと死者の中からの復活によって成し遂げられた.ヨハネは,キリストの十字架の死が主の栄光の現れであると述べている(ヨハネ12:23,28,13:31,32,17:1,4,5).また天では,ほふられた小羊の栄光がたたえられている(黙示録5:12).<復> 御子の受肉が幕屋の成就であるとすれば,その復活は神殿の成就である(ヨハネ2:21,22.参照Ⅰコリント3:16,エペソ2:20‐22).キリストの復活は,十字架の死による贖いの完成を公に認証するものであるが,同時に,受肉によって隠されていた神の御子としての栄光を公に現すものである(ヨハネ17:5,ローマ1:4,Ⅰペテロ1:21).<復> 復活によって与えられた栄光は,父なる神の右の座に着くにふさわしい栄光である(使徒2:32,33,7:55,56,エペソ1:20,21,ピリピ2:9‐11,ヘブル1:3).神の右の座に着かれたキリストは,御霊を遣わされ,御霊によって御自身のからだなる教会をお建てになった(使徒2:32,33,Ⅰコリント12:13,エペソ2:22,Ⅰペテロ2:5).この教会は,キリストによって栄光の教会へと整えられる(エペソ5:27).<復> 4.人に与えられた栄光.<復> 人は神のかたちに造られ,神のかたちとしての栄光が与えられている(創世1:26,27,5:1,9:6,詩篇8:5,ヤコブ3:9).神のかたちであることは,人が神との交わりの中に生きることの基礎である.神のかたちとしての栄光をまとって初めて,神との交わりができるのである.そして,神の御計画からすると,人と神との交わりは,より栄光あるものへと高められるべきである(参照ローマ8:29,30,エペソ1:3‐5).<復> 同時に,神のかたちである人間には,神の栄光がより豊かに現されるようになり,最後には充満な栄光が現される世界を来らせるという,歴史形成の使命が与えられた(創世1:28,詩篇8:5‐8.参照ローマ8:19‐21).<復> 人は与えられた使命の中で主に徹底して服従することによって,より栄光あるものに変えられ,主との栄光にある交わりに入るべきであった.この栄光にある主との交わりが永遠のいのちであり,これが神と人との契約の中心主題である.<復> しかし,人は主への不従順により堕落し,最初の栄光を失ってしまった.それでキリストは,十字架の死に至るまでの徹底した従順によって,人が獲得すべき栄光を獲得して下さった(ピリピ2:6‐9).これが復活の栄光であるが,それはキリストがその人間性において栄光を受けて下さったということである.それゆえに,キリストの契約の血によってキリストと一体とされる者はすべて,この栄光にあずかることができる.この栄光にあずかる者は,神との栄光にある交わりに入れられた神の子としての栄光を持つ(ローマ8:17,ヘブル2:9,10).<復> キリストにある神の子の栄光を現実のものとして下さるのは,御霊である(Ⅱコリント3:18).このことのために,御子は生かす御霊となられ(Ⅰコリント15:45),御霊は御子の御霊として働かれる(ガラテヤ4:6.参照ローマ8:9,10).<復> 5.終末における栄光.<復> 終末における栄光の現れは,創造において,神が計画されたことの成就であり,完成である.神は人に歴史形成の使命を与えられ,神の栄光が充満する世界を来らせようとされた.この使命はキリストによって果された(マタイ28:18,Ⅰコリント15:25‐27,ヘブル2:5‐10).従って,終末においては,キリストの苦難を通して獲得された栄光が,宇宙の全体にかかわる意味を持っていることが,公に示されることになる.それがキリストの再臨の栄光である.再臨のキリストの栄光の御前では,その栄光にふさわしいものだけが残り,そうでないものはすべて焼き尽されてしまう(Ⅰコリント3:12‐15,Ⅱペテロ3:10,12).そして,再臨のキリストの充満な栄光が臨在するにふさわしい,新しい天と新しい地がもたらされる(Ⅱペテロ3:13,黙示録21:1‐4,23).それはまた,キリストにある神の子をキリストの栄光のかたちに似た者に造り変えるという,すでに御霊によって始められていることの完成の時でもある(Ⅰヨハネ3:2.参照ローマ8:29,30).この再臨のキリストの栄光において,神の栄光の現れは頂点に達する.→栄化.(清水武夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社