《じっくり解説》再生とは?

再生とは?

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再生…

[ギリシャ語]パリンゲネシア(パリン〔再び〕とゲネシス〔誕生〕の合成語).再生とは,聖霊がもたらす明確な霊的変化で,堕落した人間性の再創造であり,生れつき神から離れ,悪の力の支配下にある人間が,内的に新しくされ,キリストに全く似る生活に入ることである.パリゲネシアという名詞は新約に2度だけ出てくる.マタイ19:28では「世が改まって」と訳され,終末における万物の完全な回復・更新を意味する(参照使徒3:21).テトス3:5の「新生の洗い」は聖霊による個人の更新を表して,その外側のしるしのバプテスマ(洗礼)に結び付けている.再生の変化は,「生れる」「新しく生れる」「新創造」「生かされる」など,多様な用語,語句で表現されている.<復> 1.再生の内容.<復> 再生の必要は新約と同じく旧約でも認められている(詩篇51:10等).もちろん,預言者たちは個人の更新よりも国民の更新,終末の更新を多く語っている(イザヤ65:17‐25,エレミヤ31:31以下,エゼキエル36:25‐28等).<復> (1) 新約聖書では,再生の思想は,さらに進んで個人的になる.ヨハネ3:3‐7は再生の必要を訴える.肉から生れた人間は生来御霊のいのちを持たない(3:6).それゆえ「人は,新しく(あるいは→上から/・・・←)生まれなければ,神の国を見ることはできません」(3:3).この奇蹟は神の御霊によってなされる(3:5).再生するとは,全く新しい開始を意味する.生活の改善でもなく,何らかの新しい性質や才能を付け加えることでもなくて,この上なく根本的なものであり,それによってわれわれは,これまでとは全く異なったものになろうとしているのである.これは霊的な事柄であり,肉体の再生ではなく,魂の,心の,品性の再生である.再生の奇蹟は,もし神の国のメンバーになろうとするなら,誰にとっても必要であり,しかも絶対に必要なことである.誰一人として例外とされていない.そして,誰も何か他のものでは,この驚くべき現実に代えることはできない.<復> (2) 再生はその内容から言っても,再生の変化が起される人間の性質の状態から言っても,神の超自然的力が生み出すものと言えよう.再生はわれわれを通常の世的な考え方,感じ方,意志の持ち方から,神の御思いと御意志に調和させ,われわれに真の神の視点を持つようにさせる働きであり,われわれが自分の力では生み出せないものである.この内的変化は,より高い力だけが人の心にもたらすのである.アダムにあって人間を支配している神からの離反,腐敗,不法,不信仰,自己中心などの気質(ローマ3:9以下)を,信頼と愛などに変えることができるのは,神の力のみである.再生は神の力が生み出す霊的変化であり,神から生れる(ヨハネ1:12以下,3:5,Ⅰヨハネ3:9等),新創造(Ⅱコリント5:17),死よりよみがえる(エペソ2:5以下)こととして語られる.再生はキリストを死からよみがえらせる神の奇蹟の力になぞらえられる(エペソ1:19,20等).再生は内なる人の完全な変貌か更新である(ローマ12:2,エペソ4:23).再生は個人の内側に,終末に起る万物の宇宙的回復・更新によく似たもの,前ぶれを与える.再生は終りの日における聖霊の傾注の結果である(ヨエル2:28以下,使徒2:16以下).再生は信仰によってのみ目に見えるが,キリストの再臨に向かってますますキリストに似る栄光の変貌の証拠となる(Ⅱコリント3:18).このように再生は宇宙的視点からであれ個人的視点からであれ,終末的出来事であって,歴史的秩序の内にある自然の進化論的発展ではない.再生は今われわれに起る.終りの事柄がすでにここにある.注がれた御霊の働きによって,今やわれわれの内側に実現されたのである.再生は決り文句を暗唱したり,儀式を執行したりすることによってもたらされるものではない.だからバプテスマは即再生ではない.バプテスマはそれ自体この変化の有効な原因であるよりも,むしろ内的変化の外側のしるしである.バプテスマは再生に絶対に必要な前提条件であると言うことも躊躇すべきである(例えば,使徒10:44‐48).新約聖書時代のバプテスマは,再生,教会,キリストにある新創造の終末的共同体の領域に入る通常の手段であったと言ってよいであろう.<復> 2.再生の働きの手段.<復> 再生の働きを始める手段はみことばである.みことばはいのちを与える御霊によってわれわれの心の内にいのちをもたらし,われわれを生かす.みことばの説教,つまりキリストにあっての神の救いのみわざの宣言は,神の聖霊の働きによって,われわれの内に実を結ぶようにされる.みことばの種を蒔く人が人々の救いを求めて神とともに働いたとしても,再生に導く回心の働きは常に神の働きである(Ⅰコリント3:6以下).それは再生が魔術的にではなく,理性的手段によってなされることの一部である.なぜならことばというものは理性を持つ者の働きであり,分別年齢に達した者に対する神の通常の取り扱いは,みことばを通してなされるからである.新約と同じく旧約は,神のみことばの,救い,回心させ,聖化する力をたたえている(詩篇19:7以下,119篇).イエスはみことばが神の国の種であると宣言される(ルカ8:11).回心,再生,聖化はみことばと結び付けられる(使徒11:19‐21,エペソ1:13等).この結び付きにおいてⅠペテロ1:23‐25は特に関連がある.「あなたがたが新しく生まれたのは…生ける,いつまでも変わることのない,神のことばによるのです…あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです」.<復> 3.再生の過程.<復> 再生にはそれにあずかる人が経験する明確な過程がある.神の御霊は人々の魂を多様な方法で扱われるが,魂の霊的変化の現実には幾つかの共通要素があることがわかる.<復> (1) まず,われわれの習慣的霊的冬眠状態(通常生れつきの人間が持っている霊的事柄への全くの無感覚.エペソ1:18,5:14)からの目覚めであり,特に神に対する罪の認識,認罪の形をとる.良心を通しての魂の覚醒である.程度の差こそあれ,神の前における自分の罪深い状態を認識し,罪の真剣な告白(詩篇51:4)に心を向けることがなければ,誰も再生を経験できないであろう.神の律法にはこの認罪を生み出す役目があるが,律法だけでは純粋な罪の悔いを生み出さないであろう.<復> (2) 次の段階は啓蒙,つまりキリストの知識における啓蒙の増加である.啓蒙も第1の段階のように神の働きである(ヨハネ16:13‐15,Ⅱコリント4:6).しかし啓蒙があっても,再生の働きは完全とは言えない.<復> (3) 人は,自分の救いのための神の御心を理解するだけでなく,それに従わなければならない.聖霊の働きはわれわれの中心である意志の更新に向けられる.そのために御霊はまず説得によって働かれる.御霊は暴力や強制によって行動されないからである.神は人間に与えられた性質に応じて,人間を取り扱われる.神は最大の愛と恵みをもってわれわれの意志を説得される.そして適切な動機の力によってキリストを受け入れるようにわれわれを引き寄せられる(ヨハネ6:44).これとともに,次に神はわれわれの意志に力を与えられる.神はわれわれに,確固とした信仰をもってキリストをとらえる力を賦与される(参照エペソ4:16).<復> (4) 最後に,この再生の働きは,自己をキリストに絶対的に明け渡す時に完成する.引き寄せられ,説得され,ついに御霊によって力付けられ,意志が救い主キリストに全く従い,完全な救いのためにキリストをとらえる時,再生は完成する.今や信仰とキリストのからだへのバプテスマによってキリストとの結合があり,それとともに新しく生れた神の子として新しく造られた神の民の生活に入る.「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です.古いものは過ぎ去って,見よ,すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5:17).→新生,新しい人と古い人.<復>〔参考文献〕Warfield, B. B., Biblical and Theological Studies, Presbyterian and Reformed Publishing, 1952 ; Theological Dictionary of the New Testament, Vol.1, pp.665—6, 668—75, Eerdmans, 1976.(油井義昭)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社