《じっくり解説》シオニズムとは?

シオニズムとは?

シオニズム…

パレスチナを父祖以来の約束の地とし,そこにユダヤ人の民族国家を樹立しようとする運動を言う.シオンはエルサレムの古称である.シオンに対するユダヤ人の心情は,バビロン捕囚期に神殿再建を願って歌った詩篇137:1「バビロンの川のほとり,そこで,私たちはすわり,シオンを思い出して泣いた」などに記されている.また,ユダヤ人の祈り,詩の中にも,この思いは表現されている.しかし,政治的運動として展開するのは,近代においてであった.<復> 1.中世.<復> 中世後期の地中海世界において,多くの「メシヤ」が出現した.とりわけ,16世紀前半のベニスのD・レウベニ,S・モロホー,また,17世紀の小アジアのシャブタイ・ツビは,自らをメシヤだと称し,ユダヤ人信奉者たちから熱狂的に迎えられた.彼らは,全世界のユダヤ人がエルサレムに集められると預言したが,いずれも途中で挫折している.<復> 2.先駆者.<復> 18世紀後半の啓蒙時代には,西欧ユダヤ社会内部にも,ハスカラーと呼ばれる啓蒙運動が広がった.多くのユダヤ人は改宗し,キリスト教社会に同化していった.その中で特に富裕なM・モンテフィオールやロスチャイルド家は,東欧の下層ユダヤ人を経済的に援助した.彼らの中には,信仰的熱情により,パレスチナに移住した者もいた.<復> アメリカ人M・ノアは,『ユダヤ人復興論』を著して,パレスチナへのユダヤ人移住を訴えた.また,シャーフツベリ卿等のイギリス人によるユダヤ人国家をパレスチナに設立する計画もあった.これは,キリスト教徒によるものであったが,成功しなかった.<復> 近代シオニズムの直接の先駆者は,ドイツの社会主義思想家モーゼス・ヘスであった.彼はその著『ローマとエルサレム』において初めて,政治的,歴史的考慮に基づくユダヤ国家再興計画を発表した.そして彼は,かつてイタリア統一を援助したフランスの政治的援助を期待した.しかし,彼の計画は,西欧ユダヤ人からはほとんど無視された.<復> また,雑誌「ハシャハル」を発行していたペレツ・スモレンスキンは,ユダヤ民族主義の精神的基礎に関する論文を発表した.1870年代末には,同誌上において,エリエゼル・イェフーダーが,ユダヤ民族精神の再生となる中心地がなくては民族主義は育たないとし,その中心地はパレスチナをおいてほかにはないと論じた.<復> 彼らの思想もまた,ユダヤ民衆の心をとらえることができず,運動として発展することはなかった.<復> 3.近代シオニズム.<復> 1861年のイタリア統一,1871年のドイツ統一により,民族主義が台頭した.これを背景にして,民族としての国家を持たないユダヤ人に対する排斥運動が西欧において出現した.このユダヤ人排斥運動に対抗するものとして,ユダヤ社会内部に発生した運動の一つが,近代シオニズムであった.これはまず東欧において開始され,後に西欧において,より政治的に,組織的に発展していった.以下に様々な近代シオニズムについて見ることにする.<復> (1) 精神的シオニズム.東欧において,ユダヤ人は独自の言語と文化を持ち独自の共同体を形成していた.しかし,政治上も法制上もロシア人と平等ではなかった.アレクサーンドル2世暗殺後にポグロム(ユダヤ人迫害運動)が発生して以来,反動的な体制の下に,民衆によるパレスチナ移住運動が組織されていった.1882年,オデッサの医師レオ・ピンスケルは『自力解放』と題する論文を発表し,その中で,ユダヤ人をパレスチナかどこかほかの土地に地域的に結集せしめる必要性を説いた.彼の主張は西欧ユダヤ人からは無視されたが,ロシアにおいては「シオンを愛する者」という名の小グループが組織され,ユダヤ人がパレスチナに入植することを目的とする委員会を形成した.そして少数の者は,実際にパレスチナに入植した.<復> これら初期のシオニストの中で,アハド・ハアムは,『エレツ・イスラエルからの真相』と題する論文により,精神的なシオニズムの思想を発表した.これは,狭いパレスチナと多数の先住民という障害により,大部分のユダヤ人はパレスチナに定住できないとし,パレスチナは「民族の精神的中心地」となるべきだとする考えであった.彼は,パレスチナはユダヤ文化の中心となり,そこから全世界で生活しているユダヤ人に,宗教的な感化を及ぼし,彼らの心に「シオンへの愛」を呼び覚す,というユダヤ人の精神的中心地としてのパレスチナを創設できると確信していた.この考えには,大衆行動に対する彼の軽蔑も影響していたが,彼はヘブル語学校の創設など,ヘブル文化の普及に大きな貢献をした.この運動は,ロシア革命期のユダヤ人虐殺に直面し,後には政治的シオニズムに合流することになった.<復> (2) 社会主義シオニズム.ナフマン・スィルキンが,1898年に『ユダヤ人問題と社会主義ユダヤ国家』の論文の中で発表したシオニズムである.彼は,パレスチナに社会主義によるユダヤ人国家を創立することを要求した.そして,そのためには,ユダヤ人はロシアにおいて社会民主主義的組織を設立しなければならないと主張した.これは「ポアレイ・ツィオン」運動として展開したが,分派や内部闘争のために,労働者にはそれほど強い影響を与えなかった.<復> (3) 反シオニズム.東欧において,革命運動にもシオニズム運動にも反対するシモン・ドゥブノーフによって提唱された立場であり,ユダヤ民族自治主義と名付けることができる.この立場は,世界各国に離散したユダヤ人はそれぞれの国の内部において,ユダヤ人が自治する国家を形成し,そうしたユダヤ人自治国家の集合体が精神的なユダヤ国家だとする立場である.従って,精神的シオニズムとも異なり,ユダヤ人の精神的中心地はパレスチナではなく,当時世界最大のユダヤ人人口を持っていた東欧であるとした.民族言語もヘブル語ではなくイーディッシュ語にすべきだとした.しかし,ナチスドイツによる反ユダヤ政策・ホロコーストのために,シオニズムに転化するのを余儀なくされた.<復> (4) 政治的シオニズム.政治的方法によって,ユダヤ人の国家を創設しようとする運動であり,テーオドーア・ヘルツルを指導者とし,1948年イスラエル国家の成立により,その目標を達成した.<復> ドイツ紙の特派員として,フランスのドレフュス事件を取材した際,ヘルツルはユダヤ人としての自覚に目覚め,1896年に『ユダヤ国家』を著した.この中で彼は,ユダヤ人に対する排斥運動は解消できないとして,ユダヤ国家を創設することを提唱した.翌1897年に,スイスのバーゼルにおいて第1回シオニスト会議が開催された.そこで世界シオニスト機構が設立され,組織的統一が果され,ヘルツルが指導者となった.<復> 当初ヘルツルは,ユダヤ国家創設地をパレスチナに限定しなかった.むしろアフリカのウガンダでの国家建設を積極的に推進したこともあった.これは,政治的シオニズムが,ユダヤ教に関心がなかったことの表れである.宗教を持つユダヤ人は,このようなシオニズムを神への冒涜であるとした.なぜなら,離散からの帰還は,人間の力では実現できず,神のみに可能なことであり,そのために祈りに専心すべきであると考えていたからである.<復> しかし,ロシア革命以後の反ユダヤ的傾向に絶望した宗教的な東欧ユダヤ人が参加するにつれて,パレスチナが彼らの建国目標地となっていった.そして1917年のバルフォア宣言により,イギリスからパレスチナでのユダヤ国家建設許可を獲得した.<復> 政治的シオニズムはまた,ユダヤ人の入植活動とともに展開した.ホロコーストを避けてパレスチナに移住したユダヤ人は,1935年には30万人に上った.また,19世紀末以後のキブツ(集産主義的農業共同体)による集団入植も継続され,アメリカ系財閥の資金援助にも支えられて,1948年のイスラエル共和国の成立に至った.(→図「1855—1914年におけるパレスチナのユダヤ人入植地」),→パレスチナ問題,ユダヤ人排斥主義.<復>〔参考文献〕S・エティンゲル『ユダヤ民族史』第5巻,六興出版,1978;Encyclopaedia Judaica, Vol. 16, Keter Publishing House, 1972;黒川知文「C・M・ドゥブノーフの生涯と思想」(「途上」第16号所収)思想とキリスト教研究会,1987;Laqueur, W., A History of Zionism, Schocken Books, 1976.(黒川知文)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社