《じっくり解説》恵みの手段とは?

恵みの手段とは?

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恵みの手段…

[英語]Means of grace,[ドイツ語]Gnadenmittel.広義に考えれば,恵みの手段とは,「神の恵みを伝達するための通例の媒介として,神によって定められた,外的なしるし,言葉,あるいは,行動」と定義される(ウェスリ).そもそもこの用語が英語の世界で最初に登場したのは,1661—62年に改訂された「聖公会祈祷書」においてである.そこに添えられた教理問答の中で,礼典とは何かという問に対して,「われわれに与えられる内的・霊的恵みの外的・可視的しるしを意味し,それは,そうした恵みを受ける手段として,またそれを確かに得る保証としてキリスト自身によって定められたものである」と答えられている.要するに恵みの手段とはアウグスティーヌスの古典的な定義における礼典と同義である—「内的・恒久的な恵みの外的・一時的なしるしである(an outward and temporal sign of an inward and enduring grace)」.ただしプロテスタントの世界においては,礼典は洗礼(バプテスマ)と聖餐の二つに限定され,さらに恵みの手段の中には,みことばが含まれている.また,英国教会の伝統の中では,聖書と礼典に加えて,祈りがそうした手段として尊ばれてきた.さらに用語の適用領域を広げて,18世紀のノリス(John Norris)のTreatise on Christian Prudence(1710)やそれに従ったウェスリ(ウェスレー)は,聖書に制定された上記の主要な三つの手段(instituted means)のほかに,伝統的に恵みを受ける道としてキリスト教会の中で尊ばれてきた黙想,断食,少人数の交わりの集会,自己吟味,日誌の習慣なども恵みの手段に加えている(prudential means).<復> また,こうした恵みの手段は,具体的な恵みの「武具」とも考えられてきた.信仰に入る以前,人は,世的なもの・肉的なもの・サタンの力に無抵抗で隷属してきたのが,キリスト者となった時点から,それらに対して果敢な戦いを繰り広げていく.戦いは,あらゆる不聖なものとの抗争であるが,それはわれわれを取り巻く世俗との抗争であるばかりか,さらに深刻な意味で内なる罪の性質との戦いである.それは,世俗や肉性の攻撃の中で信仰を堅持するという防御的な戦いばかりか,謙遜・忍耐・信仰・希望・愛といった神の意志を積極的に生活の中に具現して,聖化に成長するための攻撃的な戦いである.それは,単なる罪性との抗争というよりは,霊的な修練(discipline)である.戦いは危険と苦難に満ちているかのように思える.しかし,義とされて神より生れた今,恵みによって勝利する確率は圧倒的に高いことを忘れてはならない.信仰者には戦いに必要な武具・資力・方策,すべて十分に備えられている.その「戦いにあるクリスチャン(militis christiani)」に与えられた武具が恵みの手段である.そして,勝利を収めるか否かは,われわれが恵みの備えをどれほど掌握し,どれほど活用するかにかかっていると考えられる.<復> 恵みの手段に関する論争において,正統的プロテスタント教会は,おもに次の二つの点を強調してきたように思われる.<復> (1) 神によって定められ,また教会歴史の中で培われてきた手段・型(form)を無視して,手段を媒介としない聖霊(Spirit)の直接的な働きだけを求め,それで霊的目的を即座に達成したと思い込んではならない.なぜなら,手段は聖霊の恵みの働きを妨害するものではなく,逆に聖霊は手段を通して,型(form)を媒介として働くからである.燃える柴の中からモーセに現れた神から,究極的には人間のかたちをとって神が現れて下さった受肉に至るまで,神がわれわれと出会うのは,常にわれわれ人間のレベルであり,日常生活の具体的な要素を通してである.論争の例として,聖霊は常にみことば(恵みの手段)を通して働くものであると主張したルターは,神秘主義の系統であるミュンツァー(Thomas Mu¨nzer)率いるツウィッカウ(Zwickau)の預言者たちと次のような議論を交えている.みことばという型にこだわるルターに対して,ミュンツァーは,「文字は殺し,御霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)を連発し,聖霊によって与えられる内なることばの優位性に固執し,次のように述べている.「聖霊を持っていない者は,聖書を100冊食べたとしても,神について何ら深い事柄は知り得ない」.それに対して,ルターも有名なことばを残している.「聖霊を(鳩でも飲むように)ごっくりと,その羽まで全部飲み込んだ」と思っているミュンツァーなど相手にしない,と.後にウェスリも,同様の問題で,ツィンツェンドルフ率いるモラビア派と論戦している.モラビア派は,人が神の前に義と認められるのが神の恵みの賜物であるなら,それを求める者は,聖霊の働きを人間側の行動で妨害しないために,静かに・何もせずに・受け身の形で待っているのが最善であろう,と主張した(静止主義〔stillness〕).それに対してウェスリは,確かに神を待つのであるが,それは神が定められたすべての手段を用いることによって待ち望むべきであると反論した.求道者は信仰が与えられるまで,備えられている手段を通して熱心に神の恵みを求めるべきことを,また救われた者は信仰を堅持し,恵みに成長するために,可能な限り恵みの手段を活用することを勧めた.恵みの手段は,神の恵みが人間に伝達されるために,神によって備えられた管(channel)であると言う.<復> (2) 恵みの手段は,それに断食や自己統制的な規律を含めたとしても,それは肉性を虐待する苦行の課程では決してない.聖化をさらに押し進める自主トレーニングのプログラムでもない.それは,信仰者を恵みの源泉であるキリストにより密接につなぎ止め,主から霊的栄養分を吸い上げるために備えられた管である.手段は,それによって神に影響を与えて祝福を引き出そうとする人間側の儀式ではなく,逆に,神がわれわれに影響を与え,御自身に信頼させ,御心に従順ならしめるためのものである.この点から,プロテスタント信仰は,二つのことを強調してきた.(a)手段はあくまで手段であって,それ自体に,またそれを用いる行為自体に霊的効力があるわけではない.例えば,聖餐のパンを食すること,それが自動的に恵みに通じるのではなく,かぎとなるのはキリストとの個人的な関係に基づく信仰である.よって,カトリックのex opere operato(事効的)という考え—すなわち,儀式を正しく執行することで,恵みの臨在と提供は保証され,効力があるとする考え—を拒否してきた.また,信仰を優先することから,恵みを伝達するためには,どうしても特定の手段が必要であると固執することはしない.時に手段を越えて恵みが直接注がれることもあると主張してきた.(b)秘跡(サクラメント)をみことばよりも優位におくカトリックに反して,宗教改革は,種々の手段の中で最大のものはみことばであると主張した.それは,キリストの恵みを受け取る器となる信仰が「聞くことから始まり,聞くことは,キリストについてのみことばによる」(ローマ10:17)からである.ここでみことばというのは,生ける神のことばが受肉したキリストを土台とし,キリストが人々と個人的に出会う,語られたみことば,すなわち説教を含めての,生けるみことば・記されたみことば・語られるみことばの三つの局面を踏まえてのことである.そして,プロテスタント信仰においては,洗礼や聖餐の礼典は,それ自体が恵みであるというのではなく,みことばによって伝えられる恵みがそこにあることを目に見える形であかしし,保証するサインとして考えられている.→礼典,秘跡(サクラメント),聖餐論,バプテスマ,恵み.<復>〔参考文献〕J・ウェスレー「恵みの手段」『ウェスレー著作集』第3巻・説教上,説教No.16,ウェスレー著作集刊行会発行,1961;Mozley, J. K., The Gospel Sacraments, 1933 ; Baillie, D. M., The Theology of the Sacraments, Charles Scribner’s Sons, 1957 ; Wallace, R. S., Calvin’s Doctrine of the Word and Sacraments, Eerdmans, 1957.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社