《じっくり解説》聖書の権威とは?

聖書の権威とは?

聖書の権威…

1.権威.<復> 権威は,本来神のものであるというのが,聖書の教えているところである.従って,聖書の権威について考える場合,聖書がどのような意味で神の権威を帯びた書物であるかということに帰着すると思われる.これは,聖書の啓示と霊感ということであり,また,人となられた神の御子イエス・キリストの権威ある証言に負うている.<復> 2.啓示.<復> (1) 聖書が神の啓示であることは何によってわかるのかと言えば,聖書自身がそのように主張していることによる.旧約聖書を見ると,その至る所に,「主は私にこう仰せられた」(エレミヤ13:1)とか,「主のことばがあり…」(エゼキエル1:3)とか,「そのとき…主のことばがあった」(Ⅰ列王16:1)とか,「主の御告げ」(アモス2:16)という表現がある.また,モーセは道徳律法だけでなく,幕屋を建造することについて,細かな点に至るまで,神から命令を受けていた.<復> (2) 主イエス・キリストは,荒野の誘惑に際して,3回とも「…と書いてある」と言われて,聖書の権威に訴えて,悪魔を退けておられる(マタイ4章).このようなことは枚挙にいとまがない.例えば,マタイ13:14,15:7,21:42,22:31,26:54‐56,マルコ7:6,10,12:10,36,14:49,ルカ20:37,42,ヨハネ10:34等がそうである(参照マタイ12:17,13:35,21:4,ヨハネ12:39,19:24,28,36,37,使徒1:16,2:16,17,25,34,3:22,4:25,7:42,48,13:40,47,15:15,28:25,ローマ9:25,27,29,33,10:19‐21,11:8,9,26,14:11,15:9‐12,21等).これらの箇所で,モーセやダビデやイザヤなどが言ったことは,「聖書にこう記されている」ということであり,それは,取りも直さず「神がこう言っておられる」ということにほかならないことが明らかである.つまり,聖書が神の啓示であることを意味している.このことは,Ⅱペテロ1:21ではっきりと示されている.「なぜなら,預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく,聖霊に動かされた人たちが,神からのことばを語ったのだからです」.<復> 3.霊感.<復> (1) 神は,私たち人間の救いについての御心を啓示された.それが単に,ある人間に啓示されただけなら,それを受けた人が正しく受け取ったとしても,そこで止ってしまうし,人間の不正確な記憶に任されていたのであれば,神の啓示が正しく保存されることは期待できないことになる.そこで,神はそれを客観的な文書として記録させた.その時,神の啓示が正しく記録されるように働かれた聖霊の働きがあって,それを霊感と呼ぶ.聖霊があらゆる誤りから守ったのである.霊感について聖書が明確に教えているのは,次の箇所である.「聖書はすべて,神の霊感によるもので,教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16).ここで「霊感」と訳されたことばは,ギリシヤ語でセオプニューストスという語が使われている.これは,神の御霊の創造的産物という意味で,聖書がすべて神的起源を持っていることを教えている.だから,聖書は神の権威を持った書物であることが明らかになるのである.<復> (2) ところで,霊感と言うと,すぐに機械的霊感を考えやすいが,そうではなく,神は聖書記者たちの全人格に働かれ,しかも聖書のある部分だけに霊感があったのではなく,全部にあまねく行き渡っていたという意味で,言語十全霊感である.<復> 4.新約聖書の権威.<復> 以上は,主として旧約聖書の権威についての証拠であったが,新約聖書の場合はどうなのか.キリスト教会は,旧約聖書正典をユダヤ教から受け継いだ.もちろん,それは神による預言者の権威を帯びた書物であった.しかし,キリスト教会は預言者の権威を持った書物とともに,神による使徒の権威を持った書物も受け入れた.使徒たちが宣べ伝えた福音は,神の啓示と認められただけでなく,聖霊によって語られたものであると認められた.その福音の実質的内容ばかりでなく,宣べ伝えられたことばも,聖霊によって宣べ伝えられたものと信じられたのである(Ⅰテサロニケ2:13).従って,使徒たちの命令は神の権威を持つものであり,彼らの著作はその権威ある教えを書き連ねたものであった(Ⅰコリント14:37,Ⅱテサロニケ2:15,3:14).このような書物は,旧約聖書と同等の権威を持つものとして受け入れられた.そして礼拝において読まれるようになっていった(Ⅰテサロニケ5:27,コロサイ4:16,黙示録1:3).新しいこれらの書物が,使徒の権威というしるしを持って教会に与えられ,聖書として教えられるようになったことは,これを歴史的に見れば,むしろ自然のことであった.使徒ペテロが68年頃書いた手紙の中で,パウロの多くの手紙について触れている(Ⅱペテロ3:15,16).その時,ペテロは,パウロの手紙を旧約聖書と区別しないで,むしろ聖書に含め,旧約聖書を「聖書の他の個所」と呼んでいる.同様のことは,パウロの場合にも見られる.彼は,旧約聖書の申命記と,新約聖書のマタイの福音書,ルカの福音書とに,共に聖書という同等の権威を認めている(Ⅰテモテ5:18,申命25:4,マタイ10:10,ルカ10:7).このような態度は,それ以後,キリスト教会において広く行われていった.<復> 5.聖書の権威についての誤った見解.<復> (1) ローマ・カトリック教会の見解.彼らは聖書の権威を,教会が与えた権威として見,従って,教会の権威によって認定されたものと考える.また,聖書を信仰と生活における唯一の権威とは考えず,外典をも含めた聖書と聖伝を権威と考える.<復> (2) 新自由主義の見解.聖書は,特別な宗教的才能を持った人々の書いたもので,その独特な宗教意識の権威程度にしか考えていない.<復> (3) 新正統主義の見解.K・バルトやE・H・ブルンナーなどによって代表される考え方.聖書はそのままでは神のことばではなく,事実誤っている人間のことばにすぎない,と考える.これは,近代の歴史的批評的研究の成果をそのまま受け入れるところから来ている立場である.しかし,それでは神のことばの権威が失われてしまうので,聖書とは別個に神のことばの存在を考える.そして,聖書はその神のことばをあかしする人間のことばであると言う.だから,聖書は神のことばではなく,人間のことばであって,そうである限りそこには誤りがあり得るし,事実誤っていると言う.しかし,その誤っている人間のことばにすぎない聖書が,誤ることのない神のことばと同一視される時があると言う。それは,一人の人間が神と出会う時で,その時,その人は危機に追いやられ,そこで信仰が与えられ,聖書を神のことばとして認識することができるのだと主張するのである.こういうわけで,この見解では,聖書は客観的な文書として権威を持っていることを認めない.その点において,この見解は主イエス・キリストの聖書観と真っ向から対立する.主は文書としての聖書の権威を認めておられるからである.マタイ5:18で,主はこう言われた.「まことに,あなたがたに告げます.天地が滅びうせない限り,律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません.全部が成就されます」.ここで主が仰せられた「一点一画」とは,書かれた神のことばを意味している.このように,聖書の権威は,神の御子イエス・キリストの証言に最も確実な保証を持っている.<復> (4) 非神話化論の見解.R・K・ブルトマンによって提唱され,G・エーベリング,E・フックスたちの「史的イエスの新しい探求」や「新解釈学」で主張されている見解は,新約聖書の福音書が初代教会の創作であって,史実を伝えていないというものであり,福音書の権威を認めず,極めて危険な説である.→聖書,聖書の霊感,啓示論,聖霊の内的証言,霊的照明,神のことば,聖書の正典,聖書主義,権威.<復>〔参考文献〕尾山令仁『新版・聖書の権威』(JPC双書3)日本プロテスタント聖書信仰同盟(いのちのことば社発売)1979;尾山令仁『聖書の教理』羊群社,1985;McDonald, H. D., “Bible, Authority of,” Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984.(尾山令仁)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社