《じっくり解説》新解釈学とは?

新解釈学とは?

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新解釈学…

[英語]New Hermeneutic.ハイデガーとブルトマンの実存論的解釈学を受け継ぎ,神学の分野では,特に,エルンスト・フックス(E. Fuchs),ゲーアハルト・エーベリング(G. Ebeling),哲学の分野ではハンス・ゲオルク・ガーダマー(H.‐ G. Gadamer)などによって樹立された解釈学である.これは言語の問題の地平においてあらゆる知識と存在の領域を包括する根本的な理解論へと高めようとする解釈学である.<復> 第2次世界大戦後の解釈学の展開は,聖書釈義におけるルードルフ・ブルトマンの急進的批評学的方法論に基づいてなされてきた.ブルトマンによれば,歴史的な世界は超自然的啓示に対して閉鎖されている.科学がすべての基準であり,預言,受肉,復活,終末論といった超自然的な力の干渉は認められないと主張した.新約聖書は神話におおわれている.この神話は現代人の思考には受け入れられないものである.従ってこの神話は非神話化され,その上で実存的用語で再解釈されなければならない,と言う.<復> 彼はキェルケゴールとハイデガーの実存主義を用い,新約聖書のケリュグマや使信に対しての応答を決断することの重要性を強調した.語られる神のことばを聞くという決断をした時,信仰者はイエスにおける神のことばを自分自身の実存の根拠として選んだのである.なぜなら,みことばを聞く者は「自分自身の外側に立つ」([ラテン語]existere.[ギリシャ語]エク+ヒステーミに由来)のであり,同時に新しい自己理解に入って行くことが可能になるのである.それゆえ,ケリュグマ(宣教)はブルトマンの解釈学にとって中心的な事柄なのである.なぜなら,神のみことばのケリュグマ(宣教)は,聞く者を新しい実存の可能性に呼び寄せるからである.<復> 新解釈学を主唱するブルトマンの弟子たちは,彼の方法論の基本的事柄を受け入れ,またルターの「信仰のみによる義認」に関するブルトマンの解釈が正しいと確信する.恵みは信仰の領域に属するのであって,歴史的事実の中にあるのではない.それゆえに,急進的批評学は信仰的危機に立つことなく,また比較的に弱められることもなく,その主張を進めることができるのである.なぜなら,信仰は高次の歴史領域([ドイツ語]Geschichte,またはUrgeschichte原歴史)に属するのであり,聖書に記された相対的出来事は,移り変る世俗の歴史([ドイツ語]Historie史学的歴史)に属するものだからである.ブルトマンは,従来の釈義や解釈学が詳細な原則に関心を持ったのに対して,その見解をはるかに押し広げ,ハイデガーに従って実存的呼びかけとしての言語の意味を解釈しようとした.フックスとエーベリングは,ハイデガーの解釈学的言語の理論をブルトマン以上に包括的に発展させ,言語そのものが解釈学的であり,実存的であると考えた.ハイデガーは言語を「存在の家」と呼んだ.エーベリングとフックスによる言語の解釈学的重要性の再発見は,ブルトマンを超える重要な進展であると言える.<復> 新解釈学は,簡単に言えば,ブルトマンが提唱したような資料編集ではなく,ケリュグマの伝達としてイエスのことばをとらえるような積極的な方向転換を図ったのである.フックスとエーベリングはイエスのことばを「ことばの出来事」と見なした.人間は生来,存在の呼びかけに答える言語的存在である.この呼びかけは,歴史を通して人間にやって来る.なぜなら,歴史は根本的にことばの歴史であり,言語によって表現される存在の歴史であるからである.神のことばの到来は,真のことばの到来,特にイエスの愛のことばにおいて愛のことばの到来として理解される.そのようなものとしてイエスは「ことばの出来事」と呼ばれ得るのである.そしてハイデガーの解釈学の大まかな線にのりながら,復活のケリュグマのみではなく,イエスのことばを聞く者に終末論的自己理解を伝達すると主張した.また,ブルトマンはイエスの権威をパレスチナの歴史の一点にのみ制限しようとしたが,そうではなく,今日も同じ権威が教会の宣教の中で語られるのである.それゆえ,「ケリュグマ」ということばは,教会の宣教を歴史性を超えたものとして,また当時の問題のみに対してのイエスの宣教ではもはやなくなったものとして特徴付けられているので,ケリュグマは新解釈学においてはことばの出来事として置き換えられているのである.<復> しかしイエスが「ことばの出来事」と呼ばれ,彼の人格の意義が他の人々に影響を与える彼のことばの力と同一視される時,少しばかり問題が生じる.ナザレのイエスへのそのようなアプローチは,イエスのたとえを伝達するテキストに対しては好ましいと思われるが,イエスの生涯において決定的役割を果す歴史的出来事,特に十字架と復活を正当に取り扱うとは言いがたい.受難と復活は単にことばの出来事ではなかった.それらは神の義と愛を啓示する歴史的出来事であったのであり,それが示されるのは,歴史的行為とその言語的媒体とが,互いにどちらかの中に崩壊し果てるのではなく,溶けがたく結び付けられる時においてのみである.<復> 新解釈学の立場に立つもう一人の卓越した学者はガーダマーである.ガーダマーはハイデガーの弟子であり,ポスト・ブルトマン学派の解釈学の領域で指導的な役割を果しており,今日の解釈学に少なからず影響を与えている.彼はその主著『真理と方法』(1960年,第4版1975年)で,人間は近世的自然科学の枠を超える真理に至るべきこと,そのために解釈する者の理解の地平と解釈される者の理解の地平とが融合し([ドイツ語]Horizontverschmelzung),より包括的な地平が形成され,新たな理解が生れるべきであると主張した.理解することは常に地平融合というプロセスであり,同時にその本質上影響史的な出来事であると言う.影響史とは,例えば使徒パウロによるローマ人への手紙のような聖書文書は,今日人々がそれを読み歴史的に考察する前に,西洋のキリスト教会に強く影響を与えるような作用をしているという事実である.ローマ人への手紙に対する私たちの現在の関心は,この影響史によって決定的な仕方で性格付けられている.このようにガーダマーによれば,客観的な歴史的事実を会得することは不可能なことであり,テキストが解釈者に影響を与えると同時に,解釈者の文化,信念,哲学,方法論等によって,テキストの意味も異なってくるのである.<復> 福音派の学者は,このような地平の融合という問題について深入りすることに慎重である.しかし,E・D・ヒルシュの主張には好意的態度を示している.ヒルシュはテキストの意味(meaning)と,意義(significance)を明確に区別した.意味とは,そのテキスト自体及び文法,著者がその用語を用いることによって示そうとした真の意図のことであり,意義とは,意味と別の人格,時,状況,思想の間の相関関係の中で示されるものなのである.この場合,意味は聖書の著者がその語を用いた時以来不変であるが,意義は解釈者の興味,論点,生活環境によって異なってくる.この論点は極めて重要であり,基本的な事柄にかかわっている.なぜなら,論議の中心点は,イエスと初代教会の意図と権威そのものに関することだからである.→聖書解釈学,聖書釈義,非神話化論,ブルトマン,ハイデガー,実存主義,ケリュグマ(使信).<復>〔参考文献〕P・シュトゥールマッハー『新約聖書解釈学』日本基督教団出版局,1984;ヘンドリック・ビールス『解釈学とは何か』山本書店,1987;C・E・ブラーテン『歴史と解釈学』新教出版社,1969;Elwell, W. A.(ed.), Evangelical Dictionary of Theology, Baker, 1984 ; Hirsch, E. D., Validity in Interpretation, Yale University, 1968 ; Kaiser, W. C., Jr., Toward an Exegetical Theology, Baker, 1981 ; Radmacher, E. D. / Preus, R. D.(ed.), Hermeneutics, Inerrancy & the Bible, Academic Books, 1984.(西 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社