《じっくり解説》教会会議とは?

教会会議とは?

教会会議…

[ラテン語]Concilium,[英語]Council.信仰,戒規,倫理に関する諸問題を審議し教会の意思を明らかにするための,教会の代表者たちによる会議を総称して教会会議と言う.会議に代表される教会の範囲,招集者・議長・出席者など会議の構成,決議についての強制力等の要因により多種に分類され得る.なお,プロテスタント教会の一部においては,一つの教会の会員全体で行われる会員総会をもって教会会議とすることがある.<復> 1.原型と初期の発展.<復> 教会会議の原型は,エルサレムで開かれた使徒会議(使徒15章)に見出される.異邦人キリスト者への割礼の必要を巡ってアンテオケ教会から派遣された使徒パウロやバルナバなどがエルサレム教会の使徒や長老たちと会議を行った.この会議にはエルサレムの全教会も何らかの形で関与し,決議事項は会議で宣言され,また,文書をもってアンテオケ,シリヤ,キリキヤ地方の諸教会に伝達された.後にプロテスタント諸教会がこの会議を聖書的範例として重視し,その形式をそれぞれの教会政治に適用しようとするのであるが,紀元1世紀から2世紀前半にかけての教会が実際にその形式で教会会議を行ったという歴史的証拠はない.むしろ,その時代の教会はそれぞれの必要に応じて個別の形式を発展させたと考えられる.しかし,教会組織が次第に発達するにつれて,教会行政上の一定地域(教区,主教区など)内での多様な会議形式の発生,とりわけ会議における主教の卓越した役割などの顕著な傾向が見られた.さらに,主教制度が管区主教,ローマ帝国の州都の大主教(メトロポリタン),キリスト教の大中心地の主教であるローマ教皇やエルサレム,アンテオケ,アレキサンドリアの総主教と位階的に分化する中で,教会会議も同様に下級から上級の会議へと分化した.エウセビオスの『教会史』は,2世紀後半にモンタノス主義の異端とイースターの日取りを巡って小アジヤで開かれた二つの教会会議に言及しているが,いずれにおいても主教が指導的役割を果している.教会会議の議事進行の形式においても,ローマの元老院の形式が模範とされ,元老院における皇帝ないしはその特使が占める地位を教会会議では首席主教が占めたと言われる.この点は,第1回総会議(世界教会会議)であるニカイアの会議におけるコンスタンティーヌス大帝の役割を理解する上で興味深い.<復> 2.東方教会総会議.<復> 古代教会の教会会議の歴史における一大転機は,キリスト教の公認に伴う,従来大主教が招集した州単位の教会会議や教皇や総主教が招集したより大きな単位の教会会議を超えた帝国大の世界教会会議(Ecumenical Council)の出現であった.これは本来,主教区,大主教区,総主教区などの会議が教会の自主的な意思決定機関であったのとは別に,帝国の宗教政策の一環としてその必要が生じたものである.それゆえ,ローマ皇帝ないしは東ローマ皇帝がその招集者であり,東方と西方の全教会を代表する主教が招かれることを原則とした.しかし,結果として,キリスト教の主要な教理の樹立,異端者の処罰,教会法規の整備など重要な意義を持つものであった.このカテゴリーに属するものは次の7,ないしは8会議である.(1)ニカイア(325年),(2)第1コンスタンティノポリス(381年),(3)エペソ(431年),(4)カルケドン(451年),(5)第2コンスタンティノポリス(553年),(6)第3コンスタンティノポリス(680—681年),(7)第2ニカイア(787年),(8)第4コンスタンティノポリス(869—870年).最初の7会議はローマ・カトリック教会と東方正教会の双方がその権威を認めている世界教会会議であり,本辞典ではこの七つに限定して「総会議」の称号を与えている.なお,第7回総会議は画像崇敬を偶像礼拝に当らないとして認めたものであるが,一般にプロテスタント教会はこの会議の権威を認めていない.また,第8回の第4コンスタンティノポリス会議は総主教の罷免問題に終始したもので,東方正教会もその権威を認めないため,ここでは総会議とは呼ぶことをしない.これら七つの会議を東方教会総会議と称したのは,次に論ずる西方教会公会議と区別することもさることながら,これらの総会議の主要成果である三位一体論,キリスト二(両)性一人格論,画像崇敬論がおもに東方教会の神学的営みに基礎付けられているからである.確かに,ローマ・カトリック教会がそれら総会議を公認し,また,カルケドン総会議を例外として,ローマ教皇特使の臨席もあった.しかし,総会議をローマ教皇が招集し,その決定を認定するものであるとするカトリックの解釈は歴史的事実と多く整合しない.<復> 3.西方教会公会議.<復> 東方教会が最初の七つの総会議の教理的成果をもって教理の発展が完結したと見なすのに対し,西方教会は教理の継続的発展を認める.さらに,東ローマ皇帝や東方教会からの独自路線を進める中で,世界教会会議の招集権,会議における教皇ないしは特使の臨席の必要,決議事項の承認の必要などをカトリック教会は主張するようになった.カトリック教会は,先述の第4コンスタンティノポリス公会議に続く,次の13の教会会議を世界教会会議と見なす.本辞典では,それらを総会議と区別して公会議と称している.以下に列記すると,(9)第1ラテラノ(1123年),(10)第2ラテラノ(1139年),(11)第3ラテラノ(1179年),(12)第4ラテラノ(1215年),(13)第1リヨン(1245年),(14)第2リヨン(1274年),(15)ビエンヌ(1311—12年),(16)コンスタンツ(1414—18年),(17)フィレンツェ(1439—45年),(18)第5ラテラノ(1512—17年),(19)トリエント(1545—63年),(20)第1ヴァチカン(1869—70年),(21)第2ヴァチカン(1962—65年).第9から第15公会議までは中世の教皇至上主義(Papalism)の台頭する過程で,教皇が古代の総会議におけるローマ皇帝の地位を占めるように会議を主導したものであり,厳密には教会の意思決定機関としての会議であった.決議事項も教会と神聖ローマ帝国や教会運営上の法規など実践的であったが,主要な例外は第4ラテラノ公会議で,聖餐におけるキリストの現在に関し化体説を正式に教義とした.第16と第17公会議は,教会大分裂時代への対応から台頭した教会会議至上主義(Conciliarism)の支配した会議であったが,フィレンツェ公会議はその敗北と教皇至上主義の勝利を意味した.第19から第21公会議は,今日のカトリック教会のあり方を決定した重要なもので,対抗宗教改革とその完結と言えよう.<復> 4.プロテスタント教会会議.<復> ルターの宗教改革に見るように,プロテスタント教会は古代の総会議の伝統は聖書的として受容したが,中世のカトリック公会議の伝統全体を否定した.これは聖書を信仰と生活上の唯一の規範とする聖書主義が,教会会議を立法機関的に理解する立場となじまなかったからである.これよりプロテスタント諸教会はそれぞれの聖書解釈に基づく教会観から,多様な教会会議形態を生み出すことになるが,それらは一般に聖書的信仰と実践をチェックする司法機関的性格が強い.この点はルター派領邦教会で顕著である.再洗礼派はその各個教会主義から教会会議の理念を原則的に否定した.英国宗教改革の伝統は中世の教会会議の理念を受け継ぐが,国王首長令のゆえに教会会議における国王の地位が高い.「ただ聖書のみ」の原則に立ちつつ,立法及び司法機関としての性格を持つ教会会議論を整備したのはリフォームド教会であった.カルヴァンの『キリスト教綱要』(1559)の第4篇に展開されたような小会,中会,大会,総会と積み重ねる教会会議主義はプロテスタントの重要な伝統となった.なお,教会の制度ではなく,教派間の協力や共通の主義主張のための会議もしばしば教会会議と呼ばれる.1948年に誕生した世界教会協議会(WCC)が開催する世界教会会議や世界の福音派が開催したローザンヌ世界伝道会議(1974年)などがこのカテゴリーに入るが,厳密な意味ではこれらを教会会議と呼ぶには問題があろう.(→図「総会議・公会議一覧表」),→教会政治,職制,カトリックの職制,教会・教会論.(丸山忠孝)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社