《じっくり解説》ウェストミンスター信仰規準とは?

ウェストミンスター信仰規準とは?

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ウェストミンスター信仰規準…

[英語]Westminster Standards.17世紀に英国ロンドンのウェストミンスター教会で開催された神学者会議によって作成されたカルヴァン主義に立つ信仰規準で,信仰告白と大・小教理問答を含む.この神学者会議は,国王チャールズ1世の治世に英国教会の政治と礼典と教理を確立するために長期議会によって招集されたもので,ウェストミンスター神学者会議と呼ばれる.議会と国王との間にあった争いは宗教的に言えばピューリタニズム対英国教会の典礼の闘争であり,政治的には議会の力と国王の絶対主義の対決であった.<復> 幾度か国王の批准を得ようと努力したが成功しなかったので,1643年6月12日議会側は,英国教会の政治と典礼を確立し,教会の教理を誤った解釈から純化するために神学者会議を招集することを決議した.これはエドワード6世とエリーザベス1世のもとでなされた改革よりも徹底した教会改革を意図したものであった.こうして議会はスコットランドと大陸の改革派教会に一致する教会を建設しようとしたのである.<復> 議会は国内の各地から121人の教職者,及び上院から10名,下院から20名の議員を会議構成のメンバーに指名した.招集された教職者の中で約20名は英国教会に属し,その内の幾人かは後に主教になっている.しかし多くの主教はこのような動きに消極的であり,国王もまた1643年6月22日付けでこの会議を禁止し,従わない者には厳罰をもって臨むと宣言した.<復> このような強力な反対に直面しながらも議会側は同年7月1日に神学者たちをウェストミンスター教会に招集した.開会式には危険の中にも69名の教職者が集まった.教職者以外も含めて,その他の機会には99名が集まったこともあるが,通常は60名から80名の間の出席であった.教職,信徒を問わず,会議の構成メンバーの大多数は長老派であり,10人から12人が会衆派で,5,6人のエラストゥス主義者もいた.教会政治上には多様性があったがメンバーのほとんどはカルヴァン主義者であった.会議の目的は英国教会の教理をカルヴァン主義の線で統一すること,規律と典礼と教会政治もみことばにふさわしいものとするとともにスコットランド教会と大陸の改革派教会に近いものを作り上げるように整えて議会に推薦することに置かれた.議会側がスコットランドの応援を必要と感じ「厳粛同盟と契約」を結び,スコットランドに代表を送るように求めてから会議の目的はさらに大きくなった.両者の一致を成就するために,会議は新しい信仰告白と教理問答書と礼拝指針と教会政治規準を準備しなければならなくなった.<復> この「同盟と契約」は,スコットランドが改革派キリスト教を擁護し,イングランドとアイルランドに教理,礼拝,政治,規律の面で宗教改革を進め,スコットランド,イングランド,アイルランドに一つの教会,一つの宗教を確立し,教皇制の影響を一掃し,議会の権利と王の権威を支持するように義務付けたものである.スコットランド側は1643年8月17日に厳粛同盟と契約を受け入れ,8月19日スコットランド長老教会総会は4人の教職者と2人の長老を選び,特命委員として送ることを決めた.またイングランド議会と神学者会議はこの「契約」を受け入れたが,王は拒否した.神学者会議は大陸の改革派教会の支持を求めて回章を送り,好意的な返書を得ることができた.<復> 開会式説教は議長に選ばれたウィリアム・トウィス博士が行った.式後ただちに会議がヘンリ7世チャペルで開かれた.会議は英国教会の39箇条信条の15条までの検討を進めた.9月15日から6名のスコットランドからの特命委員も会議に加わった.彼らには決議権は与えられておらず,助言者の立場にとどまったが,厳格なカルヴァン主義と長老主義政治に立つことで強力な影響を与えた.<復> 会議は土曜日を除いて毎日開催された.通常は60人ほどが集まり,三つの委員会に分れた.どの委員会にも参加したい者は自由に入ることができた.各委員会は午後の集りで本会議に提出する事柄を用意し,聖句を付して提案をした.本会議ではまず祈りがささげられた後,書記が提案と聖句を読み,続いてなされる討論は慎重にまた規律正しく行われた.誰も発言を強要されず,語りたいと思う者が立ち上がり,さえぎられることなく自分の意見を述べることができた.各自があらかじめ問題をよく研究し,話すことを準備していた.<復> 教会政治が一番難しい問題であり,一時は解決不可能とさえ思われた.一部に監督制を主張する者があり,他にはスコットランドの委員と長老主義者たちがおり,議論は白熱したが,多くの議論の後ついに長老制が採用されることになった.礼拝形式と教理は大して困難もなく決った.それぞれ1644年に小委員会にかけられ準備がなされた後,大委員会に回されてから本会議に提出された.礼拝指針は1644年に準備完了した.政治規準は任職の項までの部分が1644年4月20日に議会に提出され,10月2日までに受け入れられた.翌年すべての項が完成したが,印刷に回すのは1647年まで延期された.<復> 1645年から46年にかけて信仰告白は綿密に検討され,ようやく形が整い,1647年には会議ででき上がったままのものがまずスコットランド教会で受け入れられ,その後スコットランド議会で承認された.1648年には英国議会で承認された.この信仰告白は,ジェイムズ・アッシャーによって準備され1615年にアイルランド教会会議で採用されたカルヴァン主義に立つアイルランド信条が基礎になっている.スコットランド教会の代表者が39箇条の改訂作業に加わった時,彼らは改訂よりも全く新しい信条作成を会議に進言した.そこで神学者たちは主としてアイルランド信条の順序,表題,用語等に準拠しながら新信条の作成に着手したのである.彼らは反対を除き,分裂ではなく一致を得ることができるように自らの見解を表明することに努めた.こうして信仰告白は1646年12月にロンドンで証拠聖句なしで出版され,翌年の5月には聖句を付して,両院と会議の便宜のために出版された.後者をスコットランドの委員が持ち帰り,スコットランド長老教会総会のために300部を印刷した.いち早くこの総会はこの告白を承認した.一方,英国の下院がなお公に出版することをためらっている間に,ロンドンのある本屋が1648年に出版した.英国議会両院は幾つかの章を省いて同年に出版したが用いられることなく,神学者会議が作成しスコットランド教会総会の承認したものが一般には用いられるようになった.<復> 信仰告白は宗教改革時代の30有余の信条の中で聖書の教理を体系的に教えているものとしては最も完備した信条であり,33章の中に聖書論から始めて終末論までを含めてキリスト教の重要な教理がすべて網羅されている.<復> 大教理問答書は1647年10月22日に,小教理問答書は11月25日に下院に送られた.1648年の秋に上下両院は小教理問答書を公に出版することを命じた.大教理問答書は1648年に下院で承認された.小教理問答書は青少年教育のために作られたものであり,大教理問答書は説教講解のために作成された.いずれも「人の主なる目的は何か」「人の主なる目的は神の栄光をあらわし,神を永遠に喜ぶことである」という有名な問答をもって始まっている.<復> これらの優れた信仰規準も,誕生した英国ではほとんど活用されず,スコットランドを初め北米,その他世界中の長老派教会で採用されるに至っている.イングランドでは国民の大半が監督制とその典礼を好み,アイルランドでは国民の大半がローマ・カトリック信者であったため,ウェストミンスター信仰規準が定着することはなかった.→改革派,カルヴァン主義,長老派,信条・信条学,信仰の告白.<復>〔参考文献〕Warfield, B. B., The Westminster Assembly and Its Work, Oxford,1931 ; Schaff, P., The Creeds of Christendom, Vol.1, Harper & brothers, 1931 ; Vergilius, (ed.), An Encyclopedia of Religion, The Philosophical Library Ferm, 1945.(泥谷逸郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社