《じっくり解説》詩篇歌とは?

詩篇歌とは?

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詩篇歌…

1.範囲.<復> この用語の指し示す範囲は必ずしも一定ではないが,旧約聖書の詩篇に基づくプロテスタント教会の典礼歌のうち,詩篇そのもののいわゆる「韻律訳」に拍節を持った旋律を付したもの,すなわち[英語]metrical psalmを指して「詩篇歌」と呼ぶことが最も多い.類語として「詩篇唱」が挙げられるが,これは[ラテン語]psalmodiaの訳語であり,一般にローマ・カトリックの聖務日課で歌われる詩篇の朗唱を指す.欧米語においては,旧約聖書本文の「詩篇」も会衆歌としての「詩篇歌」も同じ言葉([英語]psalms,[ドイツ語]Psalmen,[フランス語]psaumes等)で呼ぶのが通例である.また「賛美歌」を意味する単語[英語]hymn,[ドイツ語]Kirchenlied, Kirchengesang,[フランス語]hymneなどは,狭義には自由詩による賛美歌のみを意味し,詩篇歌は通常除外される.<復> 2.ジュネーブ詩篇歌.<復> (1) 歴史的経緯.プロテスタント教会音楽史の中で最も重要な詩篇歌は,カルヴァン(Jean Calvin)とその後継者のド・ベーズ(ベザ)(The´odore de Be`ze)が完成したいわゆる「ジュネーブ詩篇歌」である.カルヴァンはルターと同じく会衆歌を重視したが,ルターのように自由詩を歌詞として採用することはせず,神の霊感を受けて書かれたことばだけを用いるのがよいと考えて,詩篇の韻律訳に旋律を付けたものと,聖書に現れる詩篇以外の若干の歌(カンティクム)だけを採用した.彼はまず1539年にストラスブールで19曲の詩篇歌と3曲のカンティクム(シメオンの歌,十戒の歌,信仰告白の歌)を出版したが,このうち13の詩篇の韻律訳は,フランス王フランソワ1世の宮廷に仕えたクレマン・マロー(Cle´ment Marot)によるものであり,残る6篇はカルヴァン自身の訳であった.旋律については,ほとんどが作者不詳だが,聖トマス教会の音楽監督であったグライター(Matthias Greiter)やオルガニスト,ダッハシュタイン(Wolfgang Dachstein)らの作曲と推測される.カルヴァンは1541年にジュネーブに戻り,その翌年1542年に35曲の詩篇歌と四つのカンティクムを出版し,これがジュネーブにおける最初の詩篇歌集となる.このうち30の詩篇歌にマロー,五つの詩篇歌にカルヴァン自身による韻律訳を用いている.1551年には83曲の詩篇歌と二つのカンティクムが出版されたが,このうち49曲の詩篇歌がマローの,34曲がベーズの訳を用いており,カルヴァン自身による訳は姿を消してしまう.この出版に限って,作曲家としてL・ブルジョワ(Loys Bourgeois)の協力が証明される.ブルジョワは,これ以前に出版された詩篇歌集からわずかに15曲のみをそのまま採用し,残りはすべて改変または新たに作曲した.その後幾つかの追加出版を経て,最終的には1562年に前述のベーズによって,150篇すべての韻律訳と旋律が出版された.ただし旋律は全部で125曲用意され,残りの歌詞には同じ旋律が繰り返し用いられる.ブルジョワ以後の作曲家は特定できないが,ジュネーブの“Maitre Pierre”なる人物が協力したと思われる.ただし当時Pierreの名がつく音楽家は大勢ジュネーブにおり,どのPierreであるかは特定できない.<復> この詩篇歌集は瞬く間に,ほとんどすべてのヨーロッパ語に訳され,プロテスタント教会のみならずカトリック側にも広く知れ渡っていたことを示す記述が残っている.また,ブルジョワ自身を含めた多くの作曲家(クロード・グディメル,ピエール・セルトン,クロード・ル・ジューヌ等)によって,礼拝以外の機会に演奏されるべく多くの合唱用または器楽用編曲が生れた.特に1604年から21年にアムステルダムで出版されたスウェーリンク(Jan Pieterszoon Sweelinck)の作品は,マローやベーズの韻律訳と旋律のすべてを用いた,3声部から8声部に至る合唱作品であり,詩篇歌による合唱編曲の記念碑と呼ぶにふさわしい.<復> (2) ジュネーブ詩篇歌の旋律について.ジュネーブ詩篇歌の旋律はすべて当時の教会旋法による簡明なものであり,ごくわずかな例外を除いてミニマとセミ・ブレヴィス(現代表記法では通常4分音符と2分音符で表示される)のみからなる.しかし後世の小節線による,より画一的な拍節にとらわれないため,自由闊達な性格を持っている.旋律の由来については,ドゥーアン(Orentin Douen)がその著書『クレマン・マローとユグノー詩篇歌』(1878年)の中で,当時のシャンソンなど世俗音楽が基礎であったと主張し,長くそのように信じられてきたが,近年になって1955年にハスパー(H. Hasper)が,また1962年にはピドゥー(Pierre Pidoux)が,グレゴリオ聖歌こそジュネーブ詩篇歌の源泉であることを証明した.詩篇歌第80篇とVictimae paschali laudes(カトリックのセクエンツィア〔続誦〕の一つ),また第55篇とLauda Sion(同上)の旋律的類似性を見るだけでも,ハスパーらの主張の正しさが理解されよう.また,ハスパーによれば,中世以来の教会旋法が持っていた各旋法の象徴性が保たれ,詩篇の内容と旋法の種類との関連を見ることができる.例えば,詩篇24篇,33篇などには,神の栄光とシオンの象徴としてドリア調が用いられ,詩篇51篇,69篇などには,罪の苦悩と神への希求の象徴としてフリギア調が用いられている.このことは旋律の由来とともに,詩篇歌が作られた当時の意図を間接的に表現する非常に重要な事実である.<復> (3) 各国への伝播.1562年に詩篇歌集がジュネーブで完成するのとほぼ同時に,リヨン,パリ,カン,サン・ローなどのフランス各地でも出版され,パリだけでも24の出版社が出版したと言われる.また,ドゥーアンによるカルヴァンの伝記(1879年)によれば,1562年から64年までのわずかな間に44の異なった出版が見られるということで,当時の熱狂ぶりがしのばれる.<復> 一方ドイツにおいては,ルター派の最初の賛美歌集であるAchtliederbuch(「8歌集」)(1524年)に三つの詩篇の韻律訳が含まれたのを初めとして,多くの詩篇が韻律訳されたが,いわゆるジュネーブ詩篇歌集は1565年にロープヴァッサー(Ambrosius Lobwasser)によって初めてドイツ語に訳され,1573年にライプチヒで出版された.この訳は,フランスやスイスにおけるほど広く受け入れられたとは言えないが,グディメルの単純な4声部編曲とともに再版を重ね,ルター派の礼拝の中でもしばしば用いられた.その結果,詩篇歌第42篇が「喜べ,我が魂よ」(Freu dich O meine Seele)として定着したようにドイツ・コラールの一員となった例も幾つか存在する.<復> また,イギリスにおいては,1549年頃のスターンホウルド(Thomas Sternhold)の韻律訳が非常に重要である.1553年にローマ・カトリック信者であったメアリ1世が即位して多くのピューリタンがジュネーブに逃れてからは,ジュネーブでも数多くの英語の韻律訳がホプキンズ(John Hopkins)らによって付け加えられ,英語によるジュネーブ詩篇歌“Anglo‐Genevan Psalter”がフランス語訳とほとんど同時に1562年までに完成した.このスターンホウルド=ホプキンズ訳は,イギリス本国でも聖書とともに綴じ合されて非常に多くの版を重ね,18世紀に至るまで,すべての詩篇訳の模範となった.ただし旋律に関しては,ジュネーブで1556年に初めて旋律付で出版された時から,英語独特の韻律に合せて,仏訳とは別のものが数多く採用された.しかしそれらの旋律は,しばしば精彩を欠いた平板なものであったため,長く用いられたものは少ない.逆に仏訳用旋律の中には,詩篇134篇のために書かれた旋律が詩篇100篇の英訳に用いられて,「旧100番」(Old Hundredth〔『讃美歌』第4番〕)として今日に至るまであまねく知れ渡る,という特異な例も存在する.→賛美歌(史),教会音楽.(鈴木雅明)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社