《じっくり解説》異教,異教徒とは?

異教,異教徒とは?

スポンサーリンク

異教,異教徒…

1.語義的考察.<復> (1) [ラテン語]Peganusと表されるこの異教(異教徒)ということばは,中世,都会から離れて地方に住み,文化とあまり接していないキリスト教徒ではない人たち及びその人たちの信じていた諸宗教を指していた.当時,キリスト教徒は文化の中心である都市に住んでいた.そして,教養があり文化的であると自負するキリスト教徒が,キリスト教を信じていない人たちとその人たちが信じていたキリスト教以外の諸宗教を呼ぶのに,もともとは多少軽蔑の意を込めてこのことばを用いたのである.<復> (2) [ドイツ語]Heideという語も,他言語からの翻訳ではなく,ドイツ語自体に起源があると考えられ,「低い生活をしている人たち」とその人たちが信じていた非キリスト教宗教を指していたと思われる.中世のキリスト教徒が教養があって文化的生活をしていると自負し,自分たちより生活程度が低いと感じている人たちとその信仰に対し軽蔑して用いたことばである.<復> 2.聖書的考察.<復> (1) 旧約聖書では,[ヘブル語]ゴーイム(go^yim)ということばが,イスラエルの民である[ヘブル語]アム(`am)と区別されて,それ以外の国の人たち全体を指して用いられている.70人訳と新約聖書ではヘブル語の神の民を表す[ヘブル語]アムをギリシヤ語でラオス(laos)と訳し,また,イスラエル以外の諸国民を異邦人エスネー(ethne~)と訳した.異教徒である異邦人たちは,神の救いの外にある者と見なされていたが,イスラエルの神を賛美するように要請されたり(詩篇67:4等),創世12:3,イザヤ55:5では,終りの日には将来的祝福に参与できると見られていた.<復> (2) イエスも在世中,神の選民とそれ以外の異邦人との間には,救いの順序において区別があると見ていたと思われる(マタイ10:5‐15等).もちろんイエスの教えの中には,サマリヤ人や異教徒たちのほうが,選民よりはるかに信仰がまさっているとの言及が多く見られる(ルカ10:25‐37等).パウロもさらに詳しく,ローマ3:2,15:8等で選民から異邦人へという救いの順序に従って救いが展開することを述べている.しかしパウロは,イエスが十字架とその贖いのわざを通して全人類の救い主となったのであるから,イエスを主と信じる者とされた者にとっては神の選民も異邦人も何の区別もなくなったことを宣べ伝えた(エペソ2:11‐22).すなわち,すべての人は罪人であるが,イエス・キリストの贖罪の死によってすべての人が義と認められるのだ,と告げ知らせたのである.<復> 3.教会史的考察.<復> (1) ところが,原始キリスト教会は異教徒たちからの様々な迫害に遭い,その結果,教会の外にいて教会に対し敵意を抱いている非キリスト教徒と彼らの信仰とに異教(異教徒)というレッテルを貼っていった.当初は激しい対決があったのである.<復> (2) 中世,ヨーロッパにおいては,宗教と言えばキリスト教だけが意味されていたので,キリスト教以外の宗教は異教と呼ばれ,非キリスト教徒は異教徒と呼ばれた.1.のことばは,この当時用いられた語であった.換言すれば,文化的でない人たちとその人たちの宗教が異教,異教徒だったのである.<復> (3) ルネサンス,啓蒙主義,新大陸の発見—この時ヨーロッパの人々は世界のそれぞれの宗教を客観的に調査研究するようになった.そして,同じ批判的な眼をもってキリスト教を見るようになり,中世まで絶対視されていた聖書が人間のことばとして解体されていった.その結果,キリスト教も他の宗教と何ら変るところがない一つの宗教であると考えられ始めた.何とかしてキリスト教の優位性や絶対性を証明しようとしたトレルチュやリッチュルの試みも成功せず,イエスは単なる倫理の教師の一人と見なされた.これらの結果,キリスト教以外の宗教を異教と蔑視して呼ぶことが疑問視されるようになった.<復> (4) 第1次世界大戦が終って世界が絶望と混迷の中にあった時,バルトは,イエス・キリストの啓示の絶対性と神のことばの神学をもって,キリストの啓示の絶対性を主張した.<復> 4.神学的考察.<復> (1) キリスト教と異教との間に連続性を認める立場—異教はキリスト教に至るための前段階であると考えて,両者の関係を連続関係と位置付けようとする.トマス・アクィナスも,神の自然啓示が異教世界にも与えられていることを認めているが,三位一体のような教義は,主イエスの特別啓示によってのみ明らかにされると主張した.現在でもカトリック教会は異教にも神の自然啓示が与えられていると理解しているので,異教宗教との接触に関しても寛容な面が見られる.プロテスタントの神学者の中にも,これと同様に考える者がいる.<復> (2) キリスト教も異教も全く同じであるとする立場—この考え方には2通りの見解がある.(a)イエスは単に神の愛を説いた人間であって,他の異教宗教とキリスト教との間には何の優劣もないとする自由主義神学者たちの見解.(b)バルトの立場.彼はキリスト教もその歴史的形成において異教と何ら変るところがないと主張しており,キリスト教も含めてすべての宗教は神に対する反逆行為であると言う.バルトは,宗教と福音とは断絶していると見て,キリスト教を含めた宗教に対立するものとして真の福音であるイエス・キリストの啓示を対置させたのである.宗教はすべて「偽り」であるとして,福音と区別する.この立場にヘンドリク・クラーメル(クレーマー)も比屋根安定も立っている.<復> (3) 宗教としてのキリスト教の絶対性を主張し,異教に対して,全く断罪する立場—異教は真の宗教であるキリスト教の「悪魔のまねごと」であり,神への背信行為であるとする.<復> 5.日本における状況と異教に対するわれわれの考え方.<復> (1) 日本における異教とは何を意味するか—日本においてわれわれクリスチャンが異教と言った場合,仏教,神道,新宗教その他様々な宗教を指し,その信徒たちを異教徒と呼ぶ.<復> (2) 日本人クリスチャンの中の異教的要素—イザヤ・ベンダサンが日本人クリスチャンを日本教キリスト派と呼んでいるが,われわれキリスト教徒の中にも教会の中にも教団の中にも,社会生活家庭生活の中にも異教的要素を多分に秘めていることを認めざるを得ない.<復> (3) 異教徒とわれわれとの接点—バルトのように自然啓示を否定して,宗教としてのキリスト教も他の異教宗教と何ら変らないと福音との非連続性を主張していけば,異教徒に対する伝道の接点を失うことになる.クリスチャン・ホームで生れ育ったクリスチャン2世,3世を除き,ほとんどのクリスチャンは何らかの異教から回心してクリスチャンになった者たちである.主イエス・キリストの特別啓示である十字架の贖いの血と復活の力は,われわれに与えられたように,今救われていない非キリスト教徒にも与えられているのであり,彼らのためにも主イエスの救いのわざはなされているのである.われわれは,異教や異教徒を蔑視し,自己義認をするパリサイ的な立場を捨てて,罪人や取税人の立場に立たれ,彼らを神の器に変えていかれた主イエスに倣って,彼らのところに行き,主イエス・キリストの全き福音を自らの救いのあかしをもって告知していくべきである.異教徒であったわれわれに主イエス・キリストのあわれみが先に救われたクリスチャンによって届けられたのだから,われわれも,なおふさわしくない者であることを認めながらも恵みに支えられて,福音の使者として福音を携え,神が極みまで愛されている者たちのところに行くのである.→諸宗教とキリスト教,イスラムとキリスト教,ゾロアスター教,神道とキリスト教,儒教とキリスト教,仏教・ヒンズー教とキリスト教,日本の宗教.<復>〔参考文献〕比屋根安定『新版・日本宗教史』『福音と異教地盤』日本基督教団出版部,(1962,1961);Galling, K.(hrsg.), Die Religion in Geschichte und Gegenwart (3. Aufl.), J. C. B. Mohr, 1957—65.(藤巻 充)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社