《じっくり解説》アナバプテストとは?

アナバプテストとは?

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アナバプテスト…

[ドイツ語]Wiederta¨ufer,[英語]Anabaptist.「再び洗礼を受けた者」の意.再洗礼派.この運動に属する者の理解に従えば,最初の幼児洗礼は本来無効であって,彼ら自身がこの名称を用いることはなかった.しかし再洗礼を受けた者を死刑に定めたユスティニアヌス法(529年)に基づいて,当局が彼らを処刑するのに好都合なあだ名であった.オランダでは「洗礼を重んじる者」の意味を持つDoopsgezindenが用いられる.<復> 1.歴史の再評価.<復> 16世紀ヨーロッパに起ったこの運動は新約聖書への復帰をラディカル(徹底的・根源的)に主張したため,カトリック,プロテスタント双方の国教会から迫害された.迫害した側のブリンガーの手になる宗教改革史が広く用いられたこともあり,彼らを異端とする理解が長い間教会史を支配した.本来異なった性格のグループが熱狂主義者([ドイツ語]Schwa¨rmer)として一つにくくられ,「聖書を軽視する狂信家」「聖書主義者」「幻想から生れた暴力」「無抵抗主義」などの矛盾した描写がこの群れに与えられてきた.しかし20世紀初め以来歴史の見直し作業が進み,運動の真の姿が明らかにされてきている.H・S・ベンダーはスイス兄弟団,モラビアのフッタライト,オランダのメノナイトをアナバプテスト運動の中核ととらえ,他の急進派と区別した.これは現在のメノナイト教会の立場を過去に投影した狭い見方にすぎないという批判もあるが,大筋としては現在認められつつある見解と言える.再評価の波は榊原巖の諸著作などを通して日本にも及んでいる.日本メノナイト兄弟センター付属の「フリードマン・榊原図書館」に関連図書の収集がある.<復> 2.スイス兄弟団の出発.<復> コンラート・グレーベル,フェーリクス・マンツはチューリヒの改革者ツヴィングリの弟子だったが,1523年10月の第2回公開討論会の際,ツヴィングリが市議会の助けを借りて徐々に改革を進めようとしたのに対して,急速かつ徹底的な改革を求めるこれらの若者たちが疑問を持ち始めたのがツヴィングリとの対立の始めと言える.1524年,グレーベルらが当時の宗教改革指導者に書いた手紙には,(1)徹底的に聖書のみに従おうとする教会は国家権力から離れた少数者の群れである,(2)バプテスマは弟子としてキリストに従うことを決断した者の信仰の表明である,(3)主の晩餐はそのような兄弟同士の深い交わりの表現である,といった理解が現れている.これらは国教制度が前提となっている社会には受け入れがたい主張だった(なお暴力否定の立場からミュンツァーに忠告を与えている点は,従来アナバプテストを「ミュンツァーの徒」とした歴史記述の誤りを示す).1525年1月,チューリヒ市当局は幼児洗礼を拒否する者を市から追放し,集会を禁止した.21日夜,群れは祈るためにマンツの家に集まった.古記録は次のように記している.「大きな畏れに襲われて,彼らは神に恵みを示してくださるように求めた.ゲオルク〔ブラウロク〕が立ち上がって,コンラート〔グレーベル〕に洗礼を授けてくれるようにと願った.そのようにした.ついで彼〔ブラウロク〕が他の者にも洗礼を授けた」.近代の自由教会の先駆け,スイス兄弟団の誕生である.<復> 3.迫害と運動の伝播.<復> (1) 非合法運動として始まった群れはたちまち当局から迫害を受けた.財産を没収され市から追放されたが,それが伝道の機会となってスイスの各地,ドイツ,モラビアへと運動は「野火のように」(迫害者の述懐)広がった.宗教改革の時代に伝道を強調する唯一の運動となったのは,一つは「信じる者の教会」という教会観からである.だがそのためにますます迫害は激化し,初期の指導者が次々と殉教した.この危機に運動の再編成を助けたのが,ミヒャエル・ザットラーに導かれたシュライトハイムの会議だった(1527年).そこで採択された信仰告白「兄弟の一致」はこの後のアナバプテスト運動の骨格を定めるものとなった.前述のミュンツァーへの手紙に盛られた思想の再確認と言えるが,この世からの分離がそれまで以上に強調されることとなる.他に南ドイツ各地に逃れたアナバプテストの指導者として,ヴァルツフートの神学者バルターザル・フープマイアー,「生活の中でキリストに従うのでなければキリストを知ることはできない」という言葉で名高いハンス・デンク,最も多くの回心者を得たといわれるハンス・フート,新約聖書の優位を唱えてアナバプテストの聖書解釈に影響を与えたピルグラム・マールベクなどがいた.迫害は激烈を極め,最初の10年間に殉教した者5千人と推測する学者もいる.300年も続いた迫害による殉教の物語は『殉教者の鑑』(1660年初版)に詳しい.群れは信仰の自由を求めて漂泊の道を歩き続け,ヨーロッパの各地へ,ある者はロシアへ,そしてついには新大陸へと移住していった.最後までスイスに残った人たちは山奥に隠れ,次第に「隠遁の教会」の性格を持つこととなる.<復> (2) モラビアでは,危機的な状況の中で共に生きる唯一の道として財産共同体が形成された(1528年).この共同体は,その初期に様々な問題の中で良い指導を与えたヤーコプ・フッターの名前から,フッタライトと呼ばれる.キリストに倣って兄弟愛を実践しようとする者にとって財産の共有は当然の帰結だったが,社会からは特別に危険視された.毎年定期的に宣教師を送り出し,共同体内部では教育に熱心であり,文書の保存に優れ,独特の医療活動で知られていた.しかし迫害のために流浪を続け,やがてカナダ,アメリカに移住した.現在栃木県の大輪にある新フッタライトはこの流れを汲むものである.<復> (3) 1534年,アナバプテストの中で直接の啓示を強調する心霊主義的傾向の強かった群れが北ドイツのミュンスターに集結し,カトリック軍の包囲攻撃を受けた.ヤン・ファン・レイデン(ヤン・ブーケルゾーン)は黙示を受けたとして自分をダビデ王になぞらえ軍を指揮したが,1535年落城,城内の様々な混乱と相まってこの出来事がアナバプテスト迫害の火に油を注いだ.彼らが狂信家であることの証拠がここにあるとされたが,しかし旧約聖書の援用,敵に対する暴力などはむしろ国教会に共通の特徴である.メノー・シーモンスはこの逸脱を正し,スイス兄弟団とほぼ同様の聖書的,平和的な自由教会を形成した.彼に指導された群れはメニスト(メノーの仲間),後にメノナイトと呼ばれた.<復> 4.アナバプテストの強調点.<復> (1) 弟子の道([英語]Discipleship).信仰によって救われることを信じるが,その信仰は主なるキリストに倣う生き方として生活の中で表現される.これは「わざによる救い」の主張と見られて改革者の反対を受けた.<復> (2) 絶対非戦論.キリストに従う弟子は戦争という殺人行為には当然参加できない.だがこのため国家の命令に従わない反逆者とされた.<復> (3)「信じる者の教会」.キリストに従うことを決断して洗礼を受けた者のみが教会を構成する.国教会・領邦教会を否定し,教会の事柄に国権が介入することに反対した.だがこの主張のため,社会の秩序を破壊する分派活動と非難された.兄弟の交わりを強調する信徒運動としての面も,教会制度や秩序への脅威と見なされた.<復> (4) 他の何よりも聖書の権威に徹底的に従う.イエスこそ最終的な啓示であるとの視点から,イエスに従う生き方を求めて,聖書を読む.教会共同体が共に聖書を読む時に聖霊が働くことを信じる.→シュライトハイム信仰告白,共同体運動,メノナイト,バプテスマ.<復>〔参考文献〕倉塚平他編訳『宗教改革急進派』ヨルダン社,1972;榊原巖『アナバプティズム研究叢書』平凡社;出村彰『再洗礼派』日本基督教団出版局,1970;Classics of the Radical Reformation Series, Herald Press.<復>(棚瀬多喜雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社