メノナイトとは?
メノナイト…
[英語]Mennonite.オランダのアナバプテスト指導者メノー・シーモンス(1496—1561年)から取られた名称.だがオランダの群れだけではなく,1525年スイスに始まったアナバプテストの信仰を継承する諸教会をも指す.<復> 1.迫害と移住.<復> アナバプテスト運動は,宗教の改革([英語]Reformation)よりもむしろ新約聖書の教会の回復([英語]Restitution)を目指したが,国教制度がヨーロッパ社会の骨組となっていた時代に,信仰の自由,国家と教会の分離を主張した彼らの信仰は,秩序への脅威と見なされて迫害を受け,多くが殉教した.頑強にアナバプテストの信仰を持ち続けた者はスイスからモラビア,南ドイツなどヨーロッパ各地に散らされ,そこで新しい群れを作った.ネーデルランド(オランダ)ではミュンスターの惨劇(1534—35年)の後,メノー・シーモンスの指導によって福音的なアナバプテストが建設された.1683年以降,これらヨーロッパのアナバプテストは信仰の自由を求めて,数次にわたりアメリカへ移住し,メノナイト教会となった.オランダからプロシア,ロシアを経由して南北アメリカへ移住したメノナイトも多数いた.<復> 2.アーミシュの分裂.<復> 1693年,アルザス地方の群れの指導者ヤーコプ・アマンが,破門された兄弟を徹底的に忌避すべきことを主張して,同地に逃れていたスイス系アナバプテストの他の群れから分離した.アマンに従う群れがアーミシュである.後にペンシルベニアに移り,伝統を堅く守る農業共同体を形成した.電気機具・自動車などの機械文明を拒否することから好奇の目にさらされがちだが,彼らから学ぶべきであるとする人も増えている.質素な生活の強調,絶対平和主義の実践,聖書中心の生活などはメノナイトの主張と変らない.<復> 3.オランダのメノナイト.<復> この地の運動は宣教活動により早い時期にバルト海沿岸の北ポーランド,プロシアまで広がった.公の迫害は1686年以降止み,教会は会堂を建設し神学校を造って体制を整えた.迫害の続いていたスイス,南ドイツのアナバプテストのために政府にとりなし,移住の際は援助した.だが豊かになり,社会的な地位が向上するにつれて信仰は低下し,1700年に16万を数えた信徒は1800年初めには2万7千に減少した.「悪魔はメノナイトに対処する巧妙な手段を発見した.迫害を止め,富と繁栄に関心を持たせた」とは同地の牧師アブラハムスの言葉である.20世紀以降は,アナバプテストの歴史の研究,他教会からの影響などによりリバイバルを体験し現代に至っている.<復> 4.ロシアの体験.<復> プロシアに入っていたメノナイトはウクライナ地方開発のために人手を必要としたロシアの招きを受け,信仰の自由,兵役免除などの特権を与えられて,1789年ウクライナに入植した.以後移住者の数は増え,第1次世界大戦当時ロシア在住のメノナイトは12万を越えた.1860年,敬虔派の説教者エドヴァルト・ヴュストによるリバイバルに参加した者はメノナイト・ブレザレン教会(MB)を形成した.1874年,兵役免除の特権が撤回されることに反対した1万8千人余はカナダ,アメリカへ移住した.後に残った者はロシア革命,飢饉,2度にわたる世界大戦中の迫害,虐殺など悲惨な体験の末,ある者は北南米に移住,あるいはドイツ国境へ逃れた.1920年,このロシアの苦境を助けるために北米で組織されたのがメノナイト中央委員会(MCC)である.<復> 5.北米のメノナイト系諸教会.<復> (1) 1683年ペンシルベニアに到着したオランダの群れにスイス,南ドイツからの移住者が加わって「メノナイト教会」(MC)となった.彼らは世との妥協を排し,伝統を重んじた.保守的な傾向が強かったがアナバプティズムの再発見,平和の神学の確立,聖書に忠実であることの意味の再確認を通して変革しつつある.1988年現在北米の会員は11万5千人である.<復> (2) ジョン・オーバーホルツァー(1809—95年)は海外宣教,高等教育の必要を訴えたが周囲の理解を得られず,1860年,同志を糾合して新しい協議会を設立した.「ゼネラル・コンファレンス・メノナイト教会」(GC)である.ロシアから移住したメノナイトの大部分はこれに参加した.各個教会の自主性を重んじる.会員数は米国とカナダに6万4千余である.<復> (3) ロシアのMBは1870年以降,米国中西部及びカナダに移住し成長を遂げた.自由主義神学に対する反発からディスペンセーショナルな信仰も一部にある.宣教に特に熱心で,北米のMBは約4万2千だが海外の会員はこの倍近い.<復> (4) 1780年頃,リバイバルがペンシルベニアに起り,初めはリバー・ブレズレンと呼ばれたが,南北戦争当時,無抵抗主義の強調から公式に「ブレズレン・イン・クライスト教会」(BIC)の名称を採用した(1863年).回心体験を強調する点は敬虔派と通じ,ホーリネスの影響もある.北米に2万弱の信徒を有する.<復> (5) 以上のほかにアーミシュ5万7千,フッタライト1万5千,他の諸派を加えると北米の信徒数は1988年現在37万5千となる(ただし北米以外の地における教会の成長は著しく,現在は世界60か国全体で85万6千のメノナイト系信徒がいる.その約半数が非白人である).<復> 6.平和のあかし.<復> 平和主義の立場を堅持しようとした米国のメノナイトは,戦争のたびに多くの苦い経験を重ねたが,1940年の選抜徴兵法では他の歴史的平和教会とともに政府に働きかけ,良心的兵役拒否(CO)の制度を勝ち取った.第2次世界大戦では約1万2千のCOが軍隊に入る代りに民間公共奉仕作業(CPS)に参加して,ダム建設,精神病院での奉仕などを行い,教会がこれを財政面で援助した.単に軍隊に入ることを拒否するだけではなく,積極的に愛のわざを進めるために多くの青年がメノナイト中央委員会(MCC)の活動に参加している.これは救済事業を通して,戦後のヨーロッパ,アジアの復興を助け,その後はアフリカ,南米にも出かけて行き農業指導,職業訓練,医療活動などを行っている.<復> 7.日本のメノナイト系諸教会.<復> 1949年にMC系の宣教師が来日して,北海道東部で伝道を開始した.後に札幌・旭川等にも伝道して「日本メノナイト・キリスト教会協議会」が成立,現在21教会を数える.MBの宣教師は,1950年,おもに大阪地方を中心に教会を形成し,その後近隣諸県及び名古屋・横浜等にも伝道地を広げて「日本メノナイト・ブレザレン教団」を設立,教会及び伝道所は現在25ある.1951年にはGCの宣教師が南九州を中心に宣教を始め,その働きによって生れた教会は「日本メノナイト・キリスト教会会議」を組織した.北九州,広島,神戸の各地に現在18教会を数える.山口県には1953年にBICから派遣された宣教師が教会を建設し「日本キリスト兄弟(けいてい)団」を設立したがこれには名古屋・東京も含めて現在7教会が参加している.東京では地方から上京する信徒のために,1954年,集会が始まり,後に「東京地区メノナイト教会連合」が発足した.東京を中心に5教会がある.なおメノナイト教会間の協力機関として,アナバプティズムの遺産の解明とその現代における適用を研究する「日本メノナイト宣教会」(JMF),文書の出版に携わる「日本メノナイト文書協会」(JMLA)がある.→メノー・シーモンス,アナバプテスト,共同体運動.<復>〔参考文献〕ギンゲリッチ『メノナイト入門』白石キリスト教会,1984;リンド『キリストに従う者と戦争』在日メノナイト・セントラル・コミティー,1957 ; Dyck, C. J. (ed.), An Introduction to Mennonite History, Herald Press, 1981.(棚瀬多喜雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社