《じっくり解説》悪魔論(Demonology)とは?

悪魔論(Demonology)とは?

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悪魔論(Demonology)…

1.名称.<復> ヘブル語の「サーターン」は「分離する」「反対する」「非難する」などの意味を持つことばから形成され,これが70人訳でギリシヤ語に翻訳されて,神と人との分離をねらう「ディアボロス」(敵,悪魔)となった.ラテン語の「ディアボルス」はこの音訳であり,英語の「デビル」もこれに由来する.聖書は,かしらとしての悪魔([ギリシャ語]サタナス)に従属する悪霊ども[ギリシャ語]ダイモーン(マタイ8:31のみ),[ギリシャ語]ダイモニオン(マルコ3:22等)の存在を告げている.両者とも固有の「悪い」という意味や相違はなかったが,ギリシヤ思想で前者が宇宙を支配する神々として使用されていたため,新約ではこれを避け,後者を悪霊を指すものと限定して63回用いている.英語の「デーモン」は悪霊との関連で使われている.<復> 2.起源.<復> 聖書は悪魔がどのようにして存在するようになったかを語らず,また悪魔論自体は体系的には述べられていない.悪魔の本質や歴史やその活動についての史料も数は多くはなく,散在しているのみである.この分野が未発達の理由として,まず聖書記者たちの関心が第一義的には神にあり,悪魔については第二義的にしか取り扱っていないことにもよる.啓示の進展に伴い,新約聖書においては,悪魔に関して述べている箇所が増えてきてはいるが,それでも教理的と言うよりは歴史的であると言える.次に悪魔論は,組織神学においては,神論の摂理との関係で,天使論と合せて取り扱われているが,その天使についての記事もまた多くはないということにある.<復> 旧約聖書においては,悪魔は堕落した悪しき霊としては描かれておらず,神の使いとして登場している(ヨブ2:1).ユダヤ教の黙示文学の解釈としては,イザヤ14:12‐14とエゼキエル28:12‐15の預言を悪魔の起源に適用している.この解釈を巡って神学者たちの間に見解の相違が見られる.反対する側の理由は,この預言はバビロンとツロの王たちにのみ当てられたものであるから,と言う.賛成する側は,この預言は地上的な王たちのことを超越しており,悪魔の過去の姿である「明けの明星」と,堕落前の輝きである「油そそがれた守護者ケルブ」を描いている,と反論する.<復> 新約聖書のⅡペテロ2:4,ユダ6節の2箇所は,罪を犯した御使いが神のさばきのもとに置かれたことを告げている.ここから推察して,他の御使いと同じく本来は善なるものとして神によって創造されたものであったのが(詩篇148:2,5),堕落により悪しき御使いすなわち悪魔となったと考えられる.その時期について断定することは困難であるが,神の創造のみわざの完成と人間の堕罪との間に起きたと思われる.いずれにせよ,悪魔は,創造主なる神に反逆し,それ以後,神と人間の手ごわい敵となったのである.<復> 3.活動.<復> 悪魔は,「蛇」として人類の堕落を引き起し,そのさばきはエデンの園において預言された(創世3章).悪魔は超人間的,霊的な支配的勢力ではあるが(エペソ6:10‐12),神的なものではなく,その力も活動も,神の全能と全知とによって制限されており(ヨブ1,2章),最終的には敗北するように定められている.悪魔は,主の最大の敵であるだけでなく,主に敵対するもののすべてを指揮下に治めている.キリストは,この悪魔の軍勢とわざとを破壊するためにこの世界に来られたゆえに(Ⅰヨハネ3:8),その生涯を通じて,悪魔の活動もまた活発であった.主は十字架と復活において悪魔に勝利された(コロサイ2:15).ところが敗北後も悪魔はなおその活動を広げ,信じない者の大半をその支配下に置き(Ⅱコリント4:3,4),一方では,信じた者に絶えず戦いと誘惑を挑み,そのあかしも生活も破壊しようとする.しかしキリスト者は,神のあわれみにより,この悪魔に立ち向かうことができ,勝利を得ることが約束されている(Ⅰペテロ5:8‐10).悪魔はやがて天から追い出され,底知れぬ所に千年の間,捕えられて封じ込められるのであるが(黙示録12:7‐12,20:1‐3),その後いったん解き放たれてから,神への最後の反抗を試み,やがて究極的な最後を迎えるのである.<復> 4.今日の悪魔論.<復> 中世の神学者たちは,天使・悪魔論に過度の強調点を置きすぎた面が見られたが,逆に現代の神学者たちの中には,悪魔,サタンに関する教理を軽視したり排除したりしようとする幾つかの傾向がある.<復> (1) その一つは,ブルトマンの非神話化という考え方である.彼によると,悪魔論の起源に関する神話は,聖書時代の文化の世界観から出たものであると言う.当時は,悪魔が人間の中に入り,様々な病気を引き起した,と信じられていた.今日では誰もそうは思わないゆえ,この教理は排除すべきである,と主張する.しかし悪魔論は聖書全般にわたって正常な形で取り扱われており,想像的な見方も抑制され,神話的な幻想による誇張もないゆえ,この見解は当を得ていない.<復> (2) 悪魔論は,聖書の中間時代に盛んであった黙示文学の影響で,ペルシヤの二元論を反映していると言う.しかし,すでに述べたように,悪魔は神の被造物である御使いが堕落したものであるゆえ,神の許容のもとに制限されており,敵であるとはいえ,決して神から独立して対抗するような同等の力を持つような存在ではなく,その支配には初めがあり終りがあるということを,聖書は告げている.従って,聖書的な悪魔論は,一部の学者たちが言うような二元論的なものではない.<復> (3) 様々な不正や戦争などの悪は,悪魔にではなく,社会的な構造に由来している,と主張する考え方で,悪魔を社会的な力という性格として非人格化している.「この離反の世界は,魔的諸力として象徴される悪の諸構造に支配されている.悪の諸構造は個人の魂を,民族を,また自然界をさえ支配している」(ティリッヒ『組織神学』第2巻).この見解もまた,聖書の示している悪魔の人格性に対する証言と矛盾していることは明らかである.<復> (4) この立場は,バルトに見られるもので,御使いと悪魔は,共通した起源を持つものではなく,悪魔の起源と本質は,無,混沌,暗やみにあり,神の被造物ではなくて,神の創造に対する脅威の部分であると言う.この立場の根本的な問題は,悪と悪しき事どもの具体性を否定していることにある.悪魔は,彼が主張するように「非存在の力」ではなく,独自の超人間的な知恵と目的と計略とを持った存在である.それゆえに,人間は,教育や知識によっては,悪魔の力を撃退することも,それから逃れることもできないのである.<復> 悪魔論を学ぶことによって,サタン的な力や働きから来る巧妙な誘惑に注意することができる.神に近くあって仕える御使いでさえも誘惑に屈したことを知ることは,厳粛な事実であり,また警告でもある(Ⅰコリント10:12).<復> 最近は,オカルト・ブームと合せて,悪魔論への関心が高まりつつある.ただし,過度の興味を持ちすぎるとか,逆に悪魔的活動による危険を軽視する,という両極端に陥らないようにすることも必要である.このためにバランスのとれた学びがさらに求められる.→主の使い,悪,荒らす憎むべき者・荒らす忌むべき者,ベルゼブル.<復>〔参考文献〕C・S・ルイス『悪魔の手紙』新教出版社,1978;J・B・ラッセル『悪魔』教文館,1984;Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1983.(伊藤淑美)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社