《じっくり解説》患難とは?

患難とは?

患難…

旧約聖書の[ヘブル語]テラーアー(tela~’a~h)ということばは,困苦,苦しみ,苦難,悩み,患難などに訳し得る語で,概して,人生における苦しみを表している.それは外的な意味での苦難すなわち身体的苦しみのみならず,不安やストレスなどの内的な意味でも使われている.<復> このことばには特別な神学的意味合いがある.それはこの概念が主として,イスラエルの民やレムナント(残りの者)がその歴史の中で不断に経験している患難と苦しみについて用いられているからである.エジプトでの苦難や荒野における苦しみ,捕囚の苦難など数え切れないほどの記述があり,それらのほとんどの事例において,神の選民としてのイスラエルの存続とその使命の実現にかかわる試練として語られている.これらの試練は不従順な者に対するさばきであるが(ホセア5:1),また彼らを悔い改めへと導き,神に仕える民とならせるためのものでもある(イザヤ63:9,エレミヤ10:18).さらに,歴史上経験した様々な苦難に加えて,大いなる患難の日がやがて訪れると告げている(ダニエル12:1,ハバクク3:16,ゼパニヤ1:14).<復> 神の選民の苦難とともに,詩篇には個々の信仰者の苦しみが取り扱われている.苦しみは神が,ある時には敵対者を用い,ある時には肉体的苦痛を伴う出来事を用いてもたらされるものではあるが,神は神に信頼を置く者の祈りを聞き,苦難の中から救い出されるお方であることをそれらの詩篇は教えている.<復> 新約聖書では,[ギリシャ語]スリプシス(thlipsis)が45回用いられており,その約半分はパウロの手紙に出てくる.その訳語は多様で,患難(12回),苦難(9回),苦しみ(16回),困難(3回),迫害,苦労,苦痛,災難などとなっている.この語の動詞形[ギリシャ語]スリボー(thlibo~)は10回使われており,その訳語も,苦しめられる,苦しみに会う,苦難に会う,困っている,狭くする,押し寄せて来る,などである.<復> 患難はキリスト者と教会にとり,この世にあって避けて通れないものである(ヨハネ16:33,使徒14:22).主に従って信仰の道を歩むことは,ある時には理由もなく憎まれ,誤解され,狭く険しい道をも通ることである.縄目と苦しみがみことばの宣教に携わる者たちを常に待ち構えている(使徒20:23).しかし,そこにはキリストによる勝利の力とすべてのことを働かせて益として下さる神の約束がある(ローマ8:28,37).いかなる迫害も困難も,信じる者の内に働く計り知れない神の力に敵することはできない.四方八方から苦しめられても窮せず,途方に暮れても行き詰らず,迫害されても見捨てられず,倒されても滅びることはない(Ⅱコリント4:7‐9).<復> また,教会や使徒たちが経験する苦難はキリストの苦しみにあずかることと見なされている(ピリピ3:10).パウロは言う,「キリストのからだのために,私の身をもって,キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(コロサイ1:24).初代教会はキリストのゆえに辱めを受けることができるようになったことを,真の弟子となり得たことのあかしとして,心から喜んでいる.彼らは主がすでに経験された苦難が今や彼ら自身の苦難において継続していると信じている(Ⅱコリント4:10).使徒たちがいのちをかけて伝える宣教のことばゆえに受ける苦難や,キリストに忠誠を尽すことのゆえに経験する患難は,何か思いがけないこととしてではなく,ごく当然のこととして受け止められている.<復> 今の苦しみは,後の栄光と比べれば取るに足りない.忍耐をもって苦しみと向かい合う者に慰めがある(Ⅱコリント1:5).患難は忍耐を生み出し,忍耐が練られた品性を生み出し,練られた品性は希望を生み出し,その希望は失望に終ることがない(ローマ5:3‐5).苦しみのゆえの激しい試練の中にあっても,聖霊による喜びが満ちあふれる(Ⅱコリント8:2,Ⅰテサロニケ1:6).信仰をもって苦難と試練とを受容することにより,教会は神のことばの真実をあかしする.信仰に生きる者の持つ,この世は与え得ない平安と喜びをあかしする.その力が人間の内にではなく,神にあることをあかしする.そして,教会はその生き様と宣教のことばを通して,いかなる苦難もキリストによって打ち破られていることをあかしするのである.<復> さらに聖書には,終末に起る患難についての言及がある.福音書によれば,教会はキリストの再臨と世の終りに先立って訪れる患難を経験する(マタイ24章,マルコ13章).その前兆として「にせキリスト」や「にせ預言者」が出現して神の民を惑わし,災害や天地の異変が起きる.「世の初めから,今に至るまで,いまだかつてなかったような,またこれからもないような,ひどい苦難がある」(マタイ24:21).しかし,これらがすべてではない.患難の後に,「人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタイ24:30).従って,教会はいつも,目の前の現実にのみとらわれることなく,それをはるかに越えて勝利を約束されている生けるお方にある希望に,今を生きる存在とならなければならない.<復> ヨハネの黙示録においても,当時の教会が経験していた殉教の死を伴う患難と,やがて来る大いなる患難の時代に言及している.象徴的に描写されているその患難は言語に絶するものであるが,最後には神が御自身の民のために勝利を収められる(7:14,21:1‐7).<復> 最後に,終りの時の大いなる患難に関し,いわゆる「患難時代」とキリストの再臨との関係について述べよう.前千年期説をとる者はすべて,大いなる患難が到来することを認める.しかし,患難時代に先立ってキリストが教会を移すために来臨されるのか,それとも教会は患難時代を経た後に初めてキリストと結ばれることになるのか,という点で二分されている.前説(患難時代前再臨説)によると,教会は患難時代直前に空中に一挙に引き上げられ,主と会う.これは教会が患難時代にはこの地上に不在であることを意味し,空中に引き上げられるのは教会を終末の患難から救い出すことを目指していることとなる.他方,患難時代後再臨説は,教会は患難時代を免れることなく,あらゆる苦難を経験することになるが,最後まで主が教会,神の選びの民を守り通される,というもので,この見解は終末における種々の出来事の解釈について過度な字義的解釈を避ける.そして,教会に与えられている希望は,患難から免れるために地上から移されることではなく,患難を通っての勝利にあるとする.このほかにも両説の中間に立つ二,三の説がある.前千年期説の中では患難時代後再臨説が大勢を占めており,釈義的にもより妥当な見解と考えられる.→殉教・殉教者,迫害,終末論,再臨,千年期.<復>〔参考文献〕Kittel, G. (ed.), Theological Dicitionary of the New Testament, Vol. 3, Eerdmans, 1965; Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1985 ; Ladd, G. E., Jesusand the Kingdom, Eerdmans, 1964.(村上 久)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社