《じっくり解説》修道院制度とは?

修道院制度とは?

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修道院制度…

[英語]Monasticism.地上におけるイエス・キリストの歩みをより一層模倣しようとして,世俗世界からある程度隔離された状態の中で禁欲と修徳に努める修道者の,教会的権威によって認可された共同体的生活形態.修道院に入ろうとする者には,すべての信者に求められる道徳規範への服従を超えた,より高度な規律への服従が要求される.この規律の内実は貞潔,清貧,従順という三つの誓願に要約することができる.修道者は貞潔の誓願によって,より神と人々への奉仕に献身するために,「天の御国のために,自分から独身者になった者もいるからです」(マタイ19:12)とのイエス・キリストのことばに従って,結婚する権利を自由意志により放棄し,自発的に独身を選択する.また清貧の誓願によって,「狐には穴があり,空の鳥には巣があるが,人の子には枕する所もありません」(同8:20)と記されているようなキリストの地上の歩みを模倣して富への執着を断ち,精神的にも貧しくなるために,現世の財産の所有権,または財産の個人的使用や管理の権利を自由意志によって放棄する.そして従順の誓願は,修道院での共同生活における上下関係の秩序の承認を意味する.キリストが父なる神に服従したように(ピリピ2:7),神の代理人である長上への信仰における服従は,キリストを模倣することになると,神学的に説明されている.修道生活における主要な義務は,修道院の中で神に仕えることであるが,ある修道院では観想生活に全面的に携わり,他の修道院では,おもに使徒的活動と福祉活動に従事する.<復> 修道院的生活形態は,ユダヤ教,ヒンズー教,仏教などの宗教にも見出されるが,キリスト教的修道院制度の起源は,3世紀のエジプトにおける隠修士の生活様式のうちに求めることができる.最初は少数派であったキリスト教会も次第に大衆化し,霊的水準や生活の規準が低下していった.そのような状況に不満を抱いていた信仰者の中から,救いに至る「狭き門」(マタイ7:13,14)を選び,砂漠で祈りと黙想と労働に専念する人々が現れた.修道院制度の創始者と言われるアントーニオス(251年頃—356年)は長い間の独居生活の後,多くの同志の指導者になった.最初の頃,多くの隠修士は独居生活をしていたが,彼らはやがて共同体を形成するようになった.パコーミオス(290年頃—346年)は,修道士のための規律と入念な細則を与えた.彼は貞潔と清貧のほかに,共同生活の条件の一つとして,長上に対する従順を付加した.修道士たちは共同礼拝をなし,各自の技術・職能に応じて,相異なる労働に従事した.修道会に社会的関心という,それまでになかった原則を確立したのは,大バシレイオス(330年頃—379年)である.彼は聖書の注釈と精神的勧告によって,身寄りのない子供や病人の世話をし,子供たちを教育し,失業者に職を与えるよう修道士たちを義務付けた.彼の修道院には付属施設として,養護施設,病院,学校,失業者のための仕事場があった.彼の規律は東方の修道院にとっては,今でも規範的である.<復> 4世紀から6世紀にかけて,修道院は西方キリスト教世界にも拡散していった.ヌルシアのベネディクトゥス(ベネディクト)(480年頃—547/550年)は西欧修道院制度の創始者と見なされている.彼はイタリアのモンテ・カッシーノの修道院の院長であったが,彼のところにいた修道者たちのために書かれた会則が,ベネディクト会だけでなく,西欧キリスト教会の全修道者のための基本的会則になった.この会則は,彼の永年にわたる人生経験に裏打ちされた人間的英知の結晶を含蓄のある簡素な文体で綴ったものである.これまでの修道院規則と比べて精神的厳しさを強調する反面,穏健で柔軟性に富んでおり,あらゆる年齢や階層の修道士に適用できるものであった.<復> ゲルマン侵入以後の西欧中世前期の激動の時代においても,自給自足のできた修道院は生き残ることができた.著述,読書,絵画,手工芸に必要な施設を備えた修道院は文化生活の中心になり,古典文化の伝統を継承し,またそれを涵養(かんよう)することになった.8世紀から9世紀にかけてのカロリング・ルネサンスの主役は修道者であった.彼らはラテン語の文学作品や教父の著作の研究や手写本の作成によって,この運動を支えた.中世前期の修道院制度は,クリュニーの修道院とその発展によって頂点に達した.クリュニー修道会はベネディクトゥスの厳格な会則への復帰を求めた.この修道会は,規則正しい荘厳な典礼の規準を確立し,肉体労働を削減し,厳しい聖務日課に従って生活した.クリュニーによって創立,改革され,受け入れられた多くの修道院は,司教や世俗君主の干渉を排除するために,組織的にクリュニーに従属した.<復> 11世紀は修道院の最盛期であったが,それとともに凋落(ちょうらく)の影が忍び寄ってきた.修道者たちが社会的名声と財産を獲得することにより,修道院は世俗社会の一部に組み込まれて世俗化していった.それに対し,シトー修道院は食事,衣服,仕事,祈りなどに関するベネディクトゥスの修道会則に厳格に服従しようとした.シトー派は,修道士になろうとする者だけを会員として受け入れ,聖務日課から細かな付属物を取り除いた.この会の最も影響力のある指導者はクレルヴォーのベルナルドゥスで,彼によってシトー派は大いに発展した.またカルトゥジオ会は,修道院の共住生活と砂漠の隠修士の生活を結合しようとした.<復> 中世末期においても,しばしば修道院精神の復興がなされた.この時代に托鉢修道士という新しい型の修道士が出現した.彼らは社会から孤立して隠遁したり儀式的礼拝に専念したりせず,この世のちまたに出て説教し,キリストへの服従を人々に訴えた.アッシジのフランチェスコ(フランシスコ)はあらゆる人々に,キリストに仕えるための清貧と兄弟愛を呼びかけた.<復> 歴史的に見るならば,修道院は男子修道院が主たるもので,女子修道院はその付属物であったが,近世に入って多くの女子修道院が独立し,17世紀以後,外部活動を活発に行うようになった.<復> 宗教改革者ルターは,福音の根源的真理に立ち返る前は修道者であったが,当時の修道院の放縦と堕落と社会的無価値を非難し,さらに修道院の原理そのものに対して神学的な攻撃を加えた.彼によれば,修道院の規律は,信仰による義認という福音の単純な真理を否定し,聖書に記されていない苦行,告解,聖務日課の実践という「わざによる義認」を説くものである.また貞潔,清貧,従順という修道誓願は,聖書が教える真の自由と人間性の完成とは相いれない.聖と俗を峻別し,世俗から隔離されたところで完徳を求める修道院の原理に対して,ルターはこの世の生活そのものを聖化することを求めた.宗教改革によって成立したプロテスタント教会は,ルター以来,わずかの例外を除いて,修道院及びそれと類似する施設を廃棄してしまった.しかしカトリック教会や東方教会においては,宗教改革,啓蒙主義,世俗主義という様々な時代の激流に抗しながら修道生活の刷新を繰り返し,現在に至るまで,時代に適応した修道生活のあり方を模索している.→ベネディクトゥス・ベネディクトゥス会,フランシスコ会,ドミニクス・ドミニコ修道会,イエズス会.(多井一雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社