《じっくり解説》禁欲,禁欲者,禁欲主義とは?

禁欲,禁欲者,禁欲主義とは?

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禁欲,禁欲者,禁欲主義…

1.禁欲とは肉体的・精神的両面において,自己の本能的欲求を抑制し,高次の宗教的理想に少しでも近付こうとする目的を持つものである.それには広義の解釈と狭義の解釈とがある.狭義にとらえる場合には,禁欲に対する動機を問題にする.もしそこに何らの動機もなしに禁欲的であるというならば,過去の生活習慣などによっている場合もあるし,あるいはありし日の優れた生活様式の再現である場合もある.従って事の中身をよく吟味して禁欲であるかないかを決定しなければならない.しかし広義に解釈すると,どのような形であれ禁欲は,当事者においてその宗教性を高めこそすれ弱めることはない.<復> 2.一般には禁欲は神秘思想と結び付く.絶対なる他者を絶対のままに体現しようとするのが神秘主義であるから,ここに禁欲が補助的に効用し思想面においてこれを助ける.神秘思想はどの宗教の中にも内在し得るから,禁欲の問題も歴史的には幅の広いものであると言わねばならない.例えば旧約聖書のナジル人は禁欲者であると言える(反対の意見もある).サムソンやサムエルのように,彼らは終生ナジル人の誓願を立て神に従おうとした.ナジル人は,ぶどう酒や強い酒を飲まない,頭髪を伸ばしておく,死体に近付かない,汚れた食物から遠ざかる,などを守らねばならなかった.新約聖書ではバプテスマのヨハネ(ルカ1:15),また主の兄弟ヤコブもそうであったと言われている.<復> 3.聖書には全く記録はないが,後代の修道院を思わせる団体が,パレスチナとエジプトにあった.前者は,代表的なものとしてエッセネ派の一つと考えられるクムラン宗団が知られており,後者はテラペウタイと呼ばれている.テラペウタイ(ギリシヤ語で「いやす者」の意)はその言葉から明らかなように「心の治癒」を目指す団体で,財産を捨てこの世と隔絶し,肉体の要求するものを一切持ち込まず,ひたすら断食と瞑想と聖典の読誦を通して神に仕えようとした.一方エッセネ派は,パリサイ派・サドカイ派とともにユダヤ教の主要な3派に数えられている.しかもエッセネの語源が「治癒者」であるとも言われることから推察して,パレスチナのエッセネ派もまたテラペウタイと同様の機能を有していたと考えられる.彼らは実に禁欲的であって,普通一般の社会生活にはなじまず,荒野や洞穴に住み,儀礼を重んじ,一定の戒律に基づいて衣服を着用し,聖なる食事に参加した.<復> 前記のバプテスマのヨハネは,イエスの先駆者としての役割から見ればナジル人誓願者であるが,福音書が告げる彼の異様なまでの服装(らくだの毛の着物)・住みか(荒野)・食べ物(いなごと野蜜)などを考え合せると,当時死海周辺の荒野にいたとされるクムラン宗団の一人だったのではないかと思われる.後代に出現する修道院は,原始キリスト教の発展過程の中に多かれ少なかれ見出される.今野国雄は,使徒2:43‐47,4:32‐37の内容がエッセネ派に関するフィローンの記述と酷似していると言う.その事が正しければ,初代のキリスト教はユダヤ教修道院制を継承したとも言える.主の兄弟ヤコブにしても終生ナジル人とも理解されるが,以上の観点から修道士的な禁欲主義者であったと言えるであろう.また新約聖書には,マタイ10:10,19:21,マルコ8:34などの禁欲的な言句が見られる.<復> 神秘主義の一つのねらいは絶対者との合一にあった.キリスト教における神秘思想が時代を越えて波状的に繰り返し現れるのも,イマゴ・デイ(神の像)の神学論争のただ中に出て来るからであり,それに伴い,神秘思想の補助的役目を果すべく禁欲主義が異端的に出現する.禁欲を通して絶対なる神に「従う」という目標を持つ限りにおいて,それはかろうじて体面を保つが,そうでない場合はキリストのからだなる教会から離れて振舞い,神との合一を願うあまりに自己をキリストと同一視するという危険を内包し,本流から大きくそれていくのである.本来のキリスト教からは異質と考えられる禁欲主義も,下降期にあり堕落した様相を呈する教会事情の下では,幅をきかせ横行するようになる.われわれはその事を一つの警鐘として謙虚に受け止めるようにすべきである.<復> 4.東洋,特にインドにおける禁欲の問題は主として六派哲学中のヨーガ派に見出される.ヨーガ派の実践論にはヨーガ・スートラの中に八実修法として記されている.それは制戒・内制・坐法・調息・制感・総持・禅定・三昧である.これらの実践により,生存による苦からの解脱(げだつ)を極めるのである.キリスト教が神への服従を願い禁欲を手段と考えるのに比して,ヨーガはただひたすら解脱を願っての禁欲行為である.<復> 六師外道中のニガンタ・ナータプッタ(マハービーラ)によるジャイナ教もまた,解脱・涅槃(ねはん)を目指して戒を守り禁欲する.ことにアヒンサー(不殺生戒)に関しては徹底しており,土中の虫・空中の微生物に至るまでアヒンサーを適用し,常にマスクを着用し農事には携わらないようにすると言う.彼らは商人が多く,従って都市の発達とともに勢力が増大した.<復> 仏教の場合は,禁欲に関して少し事情を異にする.釈迦は悟りによって中道を提唱した.極端な快楽主義にも,また極端な禁欲主義にも傾かず,中道すなわち正道を示した.苦をいかにして解決するかに当って,釈迦は極めて現実的な八正道,すなわち正見(正しい見解)・正思(正しい熟慮)・正語(正しい言葉)・正業(正しい行い)・正命(正しい生活)・正精進(正しい努力と正しい専念)・正念(正しい集中力)・正定(正しい清浄の凝念)を提起し,自己の教説が単なる精神主義やその逆の苦行一辺倒に終らないようにしたのである.<復> 日本における修験道は荒修行で知られているが,これは禁欲というよりも呪術信仰の領域で考えられることであるから,呪力獲得のための行為にすぎない.<復> 5.20世紀末における世界の繁栄と道徳的な乱れとが競合して,世情は刻々悪化していく.最近つとに終末論の見直しが叫ばれている.終末論的に言ってキリストの到来が教会論的に正しく位置付けられているか,さらに福音論的にイエス・キリストの神の国思想が地上と天国とを正しく結ぶために,教会は愛([ギリシャ語]アガペー,Ⅰヨハネ4:8)を実践する以外には何一つ考えずに献身的努力をなしているか.悪の勢力は策略的に,誤った神秘主義やそれに伴う禁欲主義を押しつけてはばからない,そのような時にクリスチャンは何を目標に生き動き働こうとしているか.このような問題についての回答を速やかに見付けるべきである.<復> 初代のキリスト教修道院制から学ぶべきものがあるとすれば,それは次の3点である.(1)瞑想を加味した祈祷の重視,(2)真理探求の道としての聖書(神のことば)の味読,(3)彼らは禁欲的に断食を四六時中行っていたが,今日のクリスチャンはむしろ粗食に甘んじ,奢侈(しゃし)に流れないようにすべきこと,である.→神秘主義,断食,修道院制度,ヨーガとキリスト教,聖別,きよめ.<復>〔参考文献〕『インド思想』(講座東洋思想1)東京大学出版会,1967;今野国雄『修道院—祈り・禁欲・労働の源流』岩波新書,1981.(久保田周)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社