《じっくり解説》組合派とは?

組合派とは?

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組合派…

[英語]Congregational Church.会衆派教会とも呼ばれる.その起源はイングランド国王エリーザベス1世の治世までさかのぼる.英国教会の改革が不徹底であると考えたピューリタンたちがそれであるが,彼らは教会の内側からの改革を目指した長老派の非分離派ピューリタンではない.1560年代に現れた,英国教会からの分離こそが教会改革の第一歩と主張した分離派ピューリタンが組合派の前駆者である.<復> 最初の指導的存在が,ロバート・ブラウン(1550年頃—1633年)である.1581年に分離派の教会を設立するが弾圧でオランダに逃れる.翌年出版された2冊の書物が有名である.この中で彼は,教会は王権によらず教会自身の手によって改革されなければならず,国家から独立していなければならないと主張.また,教会は集められたクリスチャンの団体であって,神と結ばれた契約に自覚的に入り,神とキリストの支配に服すると述べる.一つ一つの群れは神とキリストが支配するゆえに,互いに交わりを持ち協力し合いながらも政治的には独立していることを強調した.ここに,組合派の教会原理がよく示されている.<復> ブラウンに共鳴したジョン・グリーンウッドとヘンリ・バロウは1592年にロンドンに組合派の教会を組織した.その翌年に2人が処刑されたため会衆はオランダのアムステルダムに移住した.<復> ジョン・スミスの指導するゲインズバラの組合派は1602年に設立されたが,4年後にアムステルダムに移住した.教会の内紛のために大半が帰国したが,彼らはメノー派(メノナイト)の感化を受け,アルミニウス主義,浸礼のバプテスマ,組合政治に立つ教会となる.これが「普遍バプテスト」(ジェネラル・バプテスト)の起源である.<復> 1606年にスクルービーに設立された組合派を指導したのがジョン・ロビンスンで,2年後にアムステルダムに移住する.彼らが1620年に新大陸を目指してメイフラワー号で大西洋を渡りプリマス植民地を創設した,ピルグリム・ファーザーズである.<復> ロビンスンの仲間であったヘンリ・ジェイコブはロンドンに残っていた分離派を中心に1612年組合派の教会を組織した.しかし非分離主義をとったのが特徴である.これがクロムウェル軍の中核をなした「独立派」と呼ばれるピューリタンである.1658年の「サヴォイ宣言」は,この教会の代表者たちによってなされた信仰告白である.1630年代にこの群れから分れた浸礼のバプテスマをとる人々が,カルヴァン主義をとる「特定バプテスト」(パティキュラー・バプテスト)の起源である.一方,1660年の王制復古でピューリタンは再び迫害されるようになり,独立派も大半が自ら進んで非国教徒となった.1668年の名誉革命により,多くの公的な不利益は残されていたが,組合派の礼拝を守る自由を手に入れた.<復> 組合派は新大陸で発展した.1620年にプリマスに入植したピルグリム・ファーザーズは分離派であるが,隣接のマサチューセッツ湾植民地を指導したのは非分離派ピューリタンである.しかし両者とも聖書に基づく教会と社会の建設という理想に燃え,自分たちの教会を植民地の宗教とし,教会員であることを公民の資格とした.この姿勢に反対してマサチューセッツを去ったトマス・フッカー牧師が1636年に教会員とともに開いたのがコネチカット植民地でありコネチカット組合派である.1638年にジョン・ダヴンポートに導かれた移民団の開いたのがニューヘブン植民地でありニューヘブン組合派である.これらの中で最も大きな勢力を持っていたのはマサチューセッツ組合派である.<復> 四つの組合派教会は1646—48年にかけてケンブリッジ教会会議を開催する.この会議が定めた憲法が「ケンブリッジ綱領」であり,同時に,制定されたばかりのウェストミンスター信仰告白を採用した.これは,ピューリタン精神に基づく信仰と組合派の教会政治の立場に立ったニューイングランド組合派の基本的信仰告白となっている.<復> この後,植民地の繁栄とともに宗教的無関心が広がり,信仰告白をしない教会員の幼児に洗礼(バプテスマ)を施す「半途契約」を行うようになる.教会員であることが公民権を得る資格であったためになされたもので「ケンブリッジ綱領」を緩和することになった.さらに本国の王制復古により植民地の自治が奪われたために伝統の保持に苦しむようになった.自由主義となっていたハーヴァード大学を避けてコネチカット組合派が設立したのがイェール大学である.<復> 伝統の崩壊を救ったのがジョナサン・エドワーズによってノーサンプトンに起った信仰覚醒(信仰復興)であり,すぐにニューイングランド組合派に波及した.「古き光」と「新しき光」との対立があったが,前者は次第にユニテリアン化し,後者は大覚醒の精神を受け継いだ.植民地独立で急先鋒の役割を果した後は,西部に代表される辺境開拓地に伝道者を送り込むために伝道会を設立したり超教派で伝道協力を行った.大覚醒第2期の指導者であるライマン・ビーチャー,チャールズ・フィニは組合派である.特にフィニはオウバリン大学の神学教授で,西部の信仰覚醒を導いた人物として覚えられる.<復> 国内伝道の高まりは外国伝道への関心を呼び起し,1810年にマサチューセッツ組合派総会の公的支援を受け,マサチューセッツとコネチカットの教職が合同して,「アメリカン・ボード」を設立した.日本との関係では,1869年にD・C・グリーンが来日して日本組合基督教会の設立に協力したことで知られている.<復> アメリカ合衆国の組合派は,1931年にクリスチャン・チャーチと合同して組合クリスチャン教会となり,1957年にはさらに福音主義改革派教会と合同して合同キリスト教会となっている.<復> 英国本国では18世紀には大きな成長を見ていない.アイザク・ウォッツとフィリプ・ドッドリジの2人の賛美歌作者が知られている程度で,多くの教会がユニテリアン化していたと言われる.福音主義信仰復興が教会をこの状態から抜け出させた.1831年に組合派同盟が結成され,「信仰・職制宣言」を採択した.1795年に設立された海外伝道団体「ロンドン伝道会」を支える働きはすでになされていた.19世紀で有名な人物はバーミンガムのカーズ・レイン教会のロバート・W・デイルである.<復> 19世紀後半に入ると聖書批評学を他のどの教派よりも受け入れるようになり,教派という枠や伝統にこだわらなくなる.20世紀にかけての神学者にP・T・フォーサイス,C・H・ドッドらがいる.1966年には英国の長老派教会と合同して合同改革派教会を組織した.<復> こうして,歴史的な組合派教会は大部分が他の教派と合同して姿を消していったが,アイルランド,スコットランド,ウェールズでは現存している.組合主義教会政治という点では,歴史的に関係の深いバプテスト教会を初め,多くの教派の中で生き続けている.→教会政治.<復>〔参考文献〕小笠原政敏『教会史・下』アルパ新書,1974;曽根暁彦『アメリカ教会史』日本基督教団出版局,1974.(高内義宣)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社