《じっくり解説》隠された神と現された神とは?

隠された神と現された神とは?

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隠された神と現された神…

神は御自身を隠される神である.神は,悩みと虐げの中にある者を拒まれるかのように,御顔を隠される(詩篇44:24).罪は人と神との仕切りとなり,御顔を隠させ(イザヤ59:2),それゆえに神は,怒る神,罰する神,さばく神として,罪人に臨まれるのである(イザヤ57:17).しかし,この怒る神,罪の審判者である神は,「私は主を待つ.ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」(イザヤ8:17)と,なおも望みと信仰の対象となる方である.さらには,神は,怒りに御顔を隠してしまわれながらも,「怒りがあふれて,ほんのしばらく,わたしの顔をあなたから隠したが,永遠に変わらぬ愛をもって,あなたをあわれむ」(イザヤ54:8)と告げられ,その怒りの陰には「愛の神」の姿を隠す神である.つまり,怒り罰する神は,「彼をいやそう.…慰めを報いよう」(イザヤ57:18)と交わりの回復を約束される神と同じである.この神に対して,イザヤ45:15には「イスラエルの神,救い主よ.まことに,あなたはご自身を隠す神」との告白が見られるのである.<復> このように,「隠された神」([ラテン語]Deus absconditus)と「現された神」([ラテン語]Deus revelatus)に関する問題は,神のみこころについては人には知り得ない部分があるとの啓示の範囲の問題(参照申命29:29)ではない.また,神は超越的存在として,有限でしかない人間にとっては,テルトゥリアーヌスが「神は,彼の超越的な偉大さにおいて我々の心に示され,知られていると同時に知られざる方である」と語るような,神認識の限界の問題にかかわることでもない.それは,不義なる人間と,恵みを施そうとされる神との間の緊張関係にかかわる事柄である.<復> 隠された神と現された神に関する神学的考察については,M・ルターが,その初期の著作より,この問題に取り組んでいる.「十字架の神学」にも密接にかかわってくる「隠された神」についてのルターの理解は,「キリスト教会の歴史において,ルターは当時のキリスト教陣営の思想家に遙かに先んじて『隠れたること』を神の啓示の一形態として考えていた.教会は,彼の抜きんでた思想を,非常に限られた程度において理解していたに過ぎない」(H・ベルクホッフ)と評価されるものである.そのルターにおいて,隠された神についての思想は,教理として取り組まれたものではなく,彼の信仰にかかわる個人的な体験を通じて考察されていったものである.<復> 死とさばきの恐怖から救いを求めて修道院に入ったルターではあったが,修道の戒律に励んでも罪と審判の不安をぬぐい切ることはできず,善行への勧めさえもが悪魔の妖術とさえ思え,滅びのほかに道はなく,絶望が定められた運命と思うに至るのである.彼の神は怒りの神,さばく神であり,「隠された神」であった.特に,予定の教理は,その隠された神の前に彼を連れて行き,絶望の中に置き去りにするものであった.つまり,「隠された神」とは,「汝…すべし」と命じ,かつ従い得ないという恐るべき運命を人間に強いる神であり,絶対的予定の神となる.この神がパロの心をかたくなにし,エサウを生れる前から憎み,卑しいことに用いられる器をも造られる陶器師であり,なおかつその罪,違反を厳格にさばくお方なのである.「この思いに捉われて私は,キリストと神との何であるかを全く忘れ去り,神が悪党ではないかとさえ思う.予定ということを考えるとわれわれは神を忘れる.讃美は止んで,誹謗が始まる」と訴えるのが,この「隠された神」の前に立つルターである.このような苦悩と絶望の中から,信仰においてとらえたのが「現された神」である.<復> 「現された神」とは,キリストにおいて,御自身の隠蔽から踏み出された「受肉された神」,「十字架につけられた神」,罪人の死を望まれない「宣べ伝えられた神」である.「隠された神」は,十字架につけられたキリストにおいて,同時に「現された神」として信仰によって把握されるのであるが,これは信仰を持つ者にとってであり,それ以外の者には,神は依然として「隠された神」「怒りの神」であり続けるのである.このように,隠された神と現された神とは対立するものではなく,信仰において一致するものと理解されている.隠された神の前におののきつつ立つ者に求められているのは,そこに「現された神」を見る信仰であり,ルターの「隠された神」の強調は,この信仰の必要性の問題に相通じるものである.<復> 信仰と隠されてあることについて,ルターは「それゆえに,信仰に余地があるためには,信じられる対象がすべて隠されていなければならない.だがこれらのものは,見たり感じたり経験したりするものとは反対のものの下に隠されるより,深く隠されることはないのである.したがって神は,生かそうとされるときは,殺すことによってこれをなし,義としようとされるときは,罪あるものとすることによってそれをなし,…このように,神は彼の永遠の慈悲と憐憫を,永遠の怒りの下に隠し,その義を不義の下に隠しておられるのである」と語る.ここに見られる「神はその反対の形において現わされる」がルターの啓示論の特徴となるものであり,そこに信仰の余地が生れ,信仰が要求されるのである.つまり,キリストの十字架は,「怒り」「さばき」の下に神の愛を隠すものであり,それは理性や肉の思いに対して示されることはなく(参照Ⅰコリント1:23,2:14),信仰に対してだけ現されるものである.この点,隠された神への信仰は,同様に,予定の神に対しても求められているのであり,ルターは,わずかな者しか救わぬ神について,「このように多くの者を罰するかたが慈悲深いかたであると信じること,また,彼がご自分の意志によって,必然的に,私たちを罰せられるべき者にし,したがって,…自らを愛せられるよりは,憎悪に値するように思わせておられるかたを,義であると信ずること,これが信仰の最高の段階である」と説く.そのために,肉の思いや理性は,信仰において,みことばに服することが必要とされ,信仰の重要性が説かれるのである.<復> 「隠された神」に関する問題は,バルトが「信仰命題としての神の隠れ」として取り上げているが,なお深く福音陣営においても神学的考察の課題とされるべきものである.ルターは,さばきと愛とを互いに対立するものとしてでなく,怒りをも「隠された神」の背後からの愛の光のもとに包み込む信仰を勧める.このように,信仰において神の怒りと愛とが調和的に把握されているのである.が,他方,神の愛や恩恵に導く手段となるものではない,神の怒りやさばきそのものの独自性が適切に考察されるべき課題である.→神論,ルター.<復>〔参考文献〕M・ルター「奴隷的意志について」『ルター著作集』第1集第7巻,聖文舎;佐藤繁彦『ローマ書講解にあらわれし,ルターの根本思想』ルター研究会(1933),聖文舎(1961,改訂版);Dillenberger, John, God Hidden and Revealed, 1953.(柴田敏彦)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社