《じっくり解説》ユダヤ人排斥主義とは?

ユダヤ人排斥主義とは?

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ユダヤ人排斥主義…

ユダヤ人及びユダヤ教徒に対する敵意,迫害,差別,憎悪を意味する語.反ユダヤ主義,アンティセミティズムとも呼ばれる.古代にも見られるが,中世には宗教的なものとして,近代においては,人種理論に基づくものとして展開した.<復> 1.古代.<復> アンティオコス・エピファネースの治世(前175—163年)において,最初のユダヤ人排斥主義が現れた.アンティオコスは,ヘレニズム化を促進する過程において,国内のユダヤ人が抵抗するのを見,一神教のユダヤ教にその原因があると考えた.そこで,前167年,ユダヤにおいてユダヤ教の信仰を禁止し,割礼を施したり安息日を守るなどしたユダヤ人を死刑に処した.また,ユダヤ人にユダヤ教以外の祭儀に参加し,豚肉を食することを強要した.またエルサレム神殿には,オリンポスのゼウスが奉献された.ユダヤ人はこれを「荒らす憎むべき者」と見た.地方においてもオリンポスの神々の神殿が建立され,伝統的ユダヤ教の祭儀の遵守を抑圧した.<復> 2.中世.<復> 中世におけるユダヤ人排斥は,「キリスト殺し」のユダヤ人に対するものであった.イスラム支配下において,ユダヤ人は「書物の民」として庇護民の地位にあった.しかしキリスト教支配下においては,様々な形でのユダヤ人排斥が実行された.<復> (1) 十字軍期における虐殺.1096年,聖地エルサレムを異教徒から奪回するために組織された十字軍は,遠征途上,「キリスト殺し」のユダヤ人に出会い,特にエルサレムにおいてユダヤ人を虐殺した.ドイツのシュパイヤー,マインツ,ウォルムス等においても多数のユダヤ人が十字軍により殺害された.<復> (2) ユダヤ人の隷従.12世紀以後のドイツとフランスにおいて,ユダヤ人は王国の国庫に所属する地位となり,教会がユダヤ人を管理することとなった.一部にはユダヤ人保護令も発せられたが,これ以後,ユダヤ人は中世においても最も低い地位となり,民衆からも蔑視されるようになった.<復> (3) 中傷事件.キリスト教徒の迷信に基づくものであり,血の中傷事件と聖体冒涜の中傷とがある.<復> 血の中傷事件は,ユダヤ人はキリストを殺して以来血に飢えており,キリスト教徒の子供を殺してその血を自らの儀式に用いるという内容の中傷である.12世紀以後イギリス,ドイツ,イタリアなどヨーロッパにおもに発生した.<復> 聖体冒涜の中傷は,キリストの聖体であるパンをユダヤ人が盗み,シナゴーグにおいて踏みにじったとする内容の中傷である.ドイツを中心に発生した.<復> (4) 黒死病.1298年から1348年にかけて多数の死者を出した黒死病は,ユダヤ人を西欧から追放する原因となった.「ユダヤ人が井戸に毒を投じたから多くの者が死んだ」といううわさが民衆の間に広まり,それがユダヤ人に対する暴動,虐殺となった.1348年教皇クレーメンス6世は,毒を投じたのはユダヤ人ではないと宣言したが,民衆はこれを無視した.この時期に,大量のユダヤ人が東欧へと迫害を逃れて移住した.<復> 3.近代.<復> 近代におけるユダヤ人排斥主義は,人種理論を伴う西欧型と,伴わない東欧型とに類型化することができる.<復> (1) 西欧型.1860年から1870年代にかけて,西欧においてはユダヤ人の解放が実現した.1789年フランス革命において発布された人権宣言は,ユダヤ人に市民権を与える最初の宣言であった.その後,西欧ユダヤ社会には,キリスト教の文化と教育を受け入れようとする啓蒙主義運動のハスカラー運動が浸透した.このため多くの西欧ユダヤ人は,ユダヤ教を捨てて,キリスト教に改宗し,キリスト教社会に同化していった.<復> しかし,1870年代後半に,西欧には国民主義の風潮が強まり,そのためユダヤ人排斥運動が再燃した.このように近代のユダヤ人排斥運動の背景には,国民主義の台頭がある.例えばドイツにおいては,1811年,同化したユダヤ人のためにドイツ文化は崩壊の危機にあると見なされた.1819年には,バイエルンにおいて「ヘップヘップ運動」と呼ばれる民衆によるユダヤ人襲撃事件が発生した.<復> 近代のユダヤ人排斥の第2の背景として,社会主義の台頭を挙げることができる.宗教をアヘンとして否定した社会主義は,ユダヤ教をキリスト教の母体と見なし,ユダヤ人をブルジョワジーと見なした.このため,ユダヤ人は,社会主義者からも攻撃されることになった.<復> 国民主義と社会主義の台頭のために,すでに同化したユダヤ人は,新たに人種理論によって区別(差別)された.フランスにおいては,1894年にドレフュス事件が起きた.これは,ユダヤ人士官ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された事件であり,偽造された証拠に基づき,軍法会議では有罪とされた.この時期フランスでは,新聞等による反ユダヤ的風潮が広がった.しかし,偽造であることが暴露され,1906年にドレフュス側が勝利すると,反ユダヤ的風潮は衰退した.ドイツにおいては,ナチ党が人種理論に基づくユダヤ人絶滅計画により,1945年までに少なくとも520万人のユダヤ人を虐殺した.<復> (2) 東欧型.東欧においてはハスカラー運動は広がらず,ユダヤ人は自らの共同体を形成し,自らの文化と言語(イーディッシュ語)を持ち,同化を拒否した.従って,人種理論により他と区別する必要はなく,同化を拒否する「異人種」としてのユダヤ人に対する排斥が,民衆と政府によって行われた.<復> (a) 定住地域.18世紀後半のポーランド分割以後,ロシア支配下となった約100万人のユダヤ人に対して,エカテリーナ2世は1772年から95年にかけて定住地域を設定した.これは,ユダヤ人の定住を限定した地域であり,約100万平方キロに及ぶ,ロシアにおける「ゲットー」であった.ユダヤ商人によるロシア国内での活動を制限する意図がそこにはあった.歴代皇帝は,ユダヤ人同化策をとるが,いずれも失敗に終った.<復> (b) ポグロム.1881年,1905年,1917年の三波にわたるユダヤ人に対する暴動「ポグロム」がロシアに発生した.ウクライナの民衆,政府,警察等が主導したポグロムは,ユダヤ人に多大の被害を与え,シオニズム運動の開始へとつながった.<復> (c) スターリンの反ユダヤ政策.革命以後,ソビエト政権による反ユダヤ政策は見られないが,スターリンは権力闘争の道具として,また冷戦期の西側陣営攻撃の手段として,ユダヤ人を「陰謀家」「資本家」「世界市民」として利用した.→ホロコースト,シオニズム.<復>〔参考文献〕S・エティンゲル『ユダヤ民族史』第6巻,六興出版,1980;Encyclopaedia Judaica, Vol.8, Keter Publishing House, 1972;黒川知文「ソ連社会におけるユダヤ人」(「海外事情」第30巻,第2号所収)拓殖大学海外事情研究所,1982.(黒川知文)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社