《じっくり解説》イスラムとキリスト教とは?

イスラムとキリスト教とは?

スポンサーリンク

イスラムとキリスト教…

イスラムとキリスト教の問題を考える時には,その共通点と対立点とを見なければならない.<復> 共通点とは,第1に,人間が神のかたちに造られているゆえに(創世1:27)宗教心が与えられており,そこから宗教的欲求が出てくるということである.そういう意味では,どのような宗教であっても,創造主なる神に造られたゆえの,内なる宗教の種子の現れと言える.しかしながら,その堕落のゆえに人間の宗教心はまことの神に結び付かず,神に栄光を帰すことができない(ローマ1:18‐23).<復> 第2に,イスラムとキリスト教が,共に旧約聖書と関係を持っている点が挙げられる.<復> 次に,対立点について述べてみよう.<復> 日本では,一般にはマホメット教,あるいは中国語圏の影響から回教と呼ばれてきたが,今日ではイスラムが,より広く用いられるようになった.マホメットという創始者の名前の呼び方も,正確にはムハンマッド(Muhammad)である.イスラムという時,ムハンマッド(570年頃—632年)ぬきにしては考えられない.彼がアラビアのメッカ郊外のヒラー山の洞窟において受けたと言われる啓示をまとめたものが,普通コーランと呼ばれるイスラムの経典である.当初は神聖視するあまり,アラビア語からの翻訳は禁じられていたが,今日では緩和され,日本語訳も岩波書店より全3巻が出ている.しかしながら,イスラムにおけるムハンマッドの存在は,キリスト教におけるイエス・キリストの存在とは全く異なる.ムハンマッドは礼拝の対象ではない.あくまでも神の使徒,大いなる最後の預言者と考えられている.彼が説くのは,全能にして唯一の創造者,支配者なる神,アッラー(Allah)である.この神への絶対服従こそがイスラムの教えの中心であり,イスラムということばの意味自体が「絶対的服従」である.日本ではイスラム教というように「教」を付けるが,本来は何も付けないで「イスラム」と言うのが正しい.<復> このような唯一絶対の創造者,支配者という神概念は,明らかに旧約聖書から来ている.それだけではなく,アダムもノアもアブラハムも,モーセも,さらにはイエスも,神から遣わされた預言者と見なされている.そして最後に現れた預言者が,ムハンマッドというわけである.慈悲深い神(アッラー)は人類を天国に導くために,モーセを通して律法の書(旧約聖書)を,イエスを通して福音書を与えた.イスラムから見るならば,これらの書を通して人類は唯一絶対の神アッラーに立ち返るべきであるのに,ユダヤ教もキリスト教もその本道から逸脱している,ということになる.特にキリスト教は,イエスを神の子とし,唯一絶対の神と同じく礼拝の対象とすることによって神を冒涜している,と非難される.コーランには神の唯一性が強調され,神は子など持たないと明記されている.「おまえたちの神は唯一の神である」(22章34節),「神にくらべうるものは何一つない」と,神の独自性が強調されている.それゆえに,イエスを本質と栄光において父なる神と等しいとするキリスト教の立場が,どんなに彼らの神観と対立するかは明らかであろう.イスラムにとっては,イエスも人類を神へと導く預言者の一人にすぎない.その唯一神観のゆえに,イスラムとキリスト教は大きな共通点を持っていると一般的には考えられているが,現実にはこのように,神観において対立している点を注目しなければならない.聖書において唯一の神とは三位一体の神であるから,イエスを神の子と認め告白しないことは,聖書的神観から逸脱し,まことの神でないものを拝むことになるのである.<復> ところでなぜイスラムが,今日のような大きな勢力となることができたのか.イスラムのどのような点が人々の心をとらえたのであろうか.それは何と言っても,強力な唯一神観を打ち出すことにより,様々な社会的不平等と抑圧に苦しむ民衆に向かって,絶対的神のもとにおける平等,神以外のものを相対化するところから来る解放の原理を示したことにあると言えよう.そういう意味では,ヒンズー世界に見られるような身分的階級制(カースト制)に当るものはない.今日でも多様な人種的,文化的構成を背景に持つ国々においては,唯一絶対の神アッラーのもとにというこの統一原理は,想像を超える力を発揮し,イスラム世界の団結は世界の注目の的ともなっている.<復> 次に救済観について見てみよう.キリスト教の中心点は,旧約聖書の預言しているメシヤこそイエス・キリストであり,このお方はたんに預言者の一人ではなく,預言者たちの指し示している救い主である,ということである.従って救いは,実にこのお方への信仰にかかっている.<復> イスラムにおいてはそのような救い主はなく,天国に至る道は,人間の努力にかかっている.すなわちおきてを守ることが善行とされ,戒律の宗教としての面が強い.礼拝,施し,食物,その他の日常生活の細部にわたる,守るべき規定が定められている.例えば,信者は1日5回の礼拝を行う.イスラム暦第9月(ラマダーン)には30日間の断食が義務付けられる.この期間は,日の出から日没まで断食をし,夕方には飲食を許される.それからまた翌日の夕方まで禁じられるのだから,熱帯の地で酷暑のなか労働を続ける苦しみは想像を超えるものがあろう.もちろんその間は水も飲めない.おきてへの服従のゆえに,人間の欲望と闘うのである.貧者への施しが善行とされることから,イスラム社会では施しを請う者の姿が至る所に見られる.(不潔な動物とされる豚を食することは禁じられ,イスラム教徒の多い国々ではレストランでも,豚肉を使用しない,彼らのための食事が用意されている).<復> 救い主を認めないなら,それがどんなに苦しいことであろうとも,律法への服従のために己を打ちたたいて従わせる以外に,天国に至る道はないことになる.しかし,罪人なる人間は誰一人,神の律法を完全に行い得る者はいない.この徹底した罪観と,神の恩寵による一方的救いに望みを託す救済観を,パウロは特にローマ人への手紙,ガラテヤ人への手紙において明らかにしている.キリスト教の救済観は,徹底した,革命的とも言えるものである.イエスを神の子,唯一の救い主として信じ仰ぐ者に,この絶大な救いが約束されている.<復> 歴史的にもイスラムとキリスト教は,十字軍による聖地エルサレムの回復という名目のもとに長い年月にわたって(1096—1291年)戦いを重ねたこともあり,教理的な面においてだけでなく,社会的にも厳しい対立関係が支配的である.しかし,だからこそ,唯一の救いの道を知るキリスト者の果すべき責任は大きいと言えるのである.→宗教(神)学,比較宗教,諸宗教とキリスト教,異教・異教徒.<復>〔参考文献〕『講座イスラム』筑摩書房,1985;井筒俊彦『イスラーム生誕』人文書院,1983;『イスラム事典』平凡社,1982.(入船 尊)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社