《じっくり解説》礼典とは?

礼典とは?

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礼典…

1.用語の意味.<復> [英語]サクラメントの訳語として用いられているが,聖書にはそのままの語句としては出てこない.秘められた宗教的な奥義あるいは神の御旨を意味するギリシヤ語ミュステーリオンをラテン語でサクラメントゥムと訳したところからきている.邦訳聖書新改訳では「奥義」(エペソ1:9,3:3,9,コロサイ1:26,Ⅰテモテ3:16),「秘められた意味」(黙示録1:20),「秘義」(黙示録17:7)と訳されており,礼典と訳されていないばかりか,その文脈において,今日意味する用語として用いられているところは一箇所もない.テルトゥリアーヌスは,サクラメントを隠された宗教的な真理を表す事実・象徴・道具・行為であると,広い意味で理解した.この広い意味において,今日も,特に旧約聖書における宗儀や職制などが持っていた象徴的な性格を指して,サクラメンタルと神学的に呼んだりする.旧約時代において,何が礼典と呼ばれるものであるかは,人によって意見が異なる.割礼が恵みの契約のしるしであったことは明らかである(創世17:11).さらに,モーセを通して神がイスラエルと結ばれたシナイ契約の中心とも言うべき,会見の幕屋(後の時代には神殿)とそこでの祭司によるいけにえ奉献もまた,礼典に数えることができるだろう.やがて遣わされるキリストと彼によって与えられる救いの恵みによって,神とともに住む民とされることを表示し,確証していたからである.この意味において,旧約時代の礼典は,新約時代における礼典が表示し保証している真理と全く同一と言えるし,そのようなものに限って礼典と呼ぶべきである.<復> 2.礼典の定義.<復> 今日,私たちが礼典と呼ぶ時,それは単に宗教的な真理を象徴するすべてのしるしを意味する広い意味においてではない.新約聖書において,神とその民との契約関係の神的なしるしと保証として(マタイ26:28),世の終りまで守るべきものとして(Ⅰコリント11:26),キリスト御自身によって制定されたもの,すなわち,洗礼式(バプテスマ)(マタイ28:19)と主の晩餐(Ⅰコリント11:23)との二つを意味している.従って,「礼典は,神が直接制定された恵みの契約のきよいしるし,または印証であって,キリストとその祝福とを表わし,キリストにあるわたしたちの権利を確認し,また教会に属する者とこの世の者との間に見える区別をつけ,かつまた神のみ言葉に従って,キリストにあって神への奉仕におごそかに彼らを従事させるためのものである」(「ウェストミンスター信仰告白」27:1).多くのプロテスタント教会がこのように狭義に限定したカテゴリーで理解するのに対して,ローマ・カトリックは,七つの「秘跡」を主張している.それは彼らがサクラメントを広義に理解しているからである.<復> 3.礼典の物質的要素.<復> 礼典は目に見えない神の契約に対する真実を,見える形で表示し,保証するものである限り,物質的な要素が用いられ,動作が伴う.キリストは,洗礼においては水を,聖餐式においてはパンとぶどう酒を,礼典の要素として制定された.それは,その礼典において表示され確証されている恵みとの関係において採択されたものである.それゆえ,洗礼が「水による洗い」と言われたり,聖餐式が「パンさき」と言われたりするのである.それらの要素は,一般的な水やパンやぶどう酒と異なるものではなく,礼典として,キリストの制定のことばに基づいて使用される時にのみ,聖なるしるしと保証としての意味を持つ.<復> 4.礼典の効力.<復> それは,見えない恵みのしるし,すなわち,見える形である.また,それが意味している霊的な恵みを保証し確証する.礼典が表し,保証する恵みが,その礼典にあずかる者に与えられるのは,礼典において用いられる物質的要素自体にそのような効力があるからではない.また,礼典を執行する司式者の「敬虔あるいは意図によるのでもない」.また,あずかる者の信仰にあるのでもない.礼典の効力は,どこまでもそれを制定されたキリストのことばによるのであり,聖霊の働きにおいて効力は現される.キリストの十字架と復活によって神の民とされた者が,その契約の真実を表示し保証する礼典にあずかるのであって,その礼典によって契約関係に結ばれたり,救いの関係が生じたりするものではない.それはすでに存在する契約の「しるし」であり,恵みの「保証」なのである.<復> 5.礼典の執行.<復> 世の終りまで守るべきものとして教会に与えられたものであるが,洗礼は,信仰告白者(及びその子供たち)に施され,キリストの贖いによって神との契約関係に入れられた恵みを表示し,確証することによって,受ける者の神への信頼と信仰を強化する.私たちはキリストにあって神の民とされた者であり,継続的にしばしば守られる聖餐式において,キリストとの霊的結合を強められ,彼に似る者へと彼のいのちによって養われていく.礼典の効力が司式者に依存していないということは,誰によって執行されてもよいということではない.みことばに仕えるために主によって召された教職者たちによって行われるべきである.それは,世の終りまでみことばの宣教とともに守るように,組織としての見える教会に命じられた儀式だからである.さらに,誰に洗礼を授けるべきか,あるいは,誰を聖餐に陪餐させるべきかは,司式する教職者に一任されている任務ではなく,教師と長老たちによる教会会議(小会あるいは役員会)において扱われる事柄であり,そこでの試問や戒規の権能と結び付いている.<復> 6.礼典の効用.<復> しばしば礼典は,みことばとともに,「恩恵の手段」と呼ばれるが,その意味は,前述したように,救いへの手段ということではない.そのことは決して,礼典の効用と必要を弱めるものでもない.キリストが制定された礼典を無視したり,なおざりにすることは,キリストへの不従順であるばかりでなく,彼による恵みの拒否につながる.礼典は,神の恵みの契約のしるしと保証という意味である.それは,信仰をもってあずかる者に,それが表示している恵みそのものを神が保証しておられるものである.洗礼における水の洗いは,キリストによる罪からのきよめを意味しているだけでなく,事実,神による罪の赦しを確証する.主の晩餐は,ただキリストの十字架の死を記念したり,表象するだけでなく,そのキリストの死によって得られた罪の赦しと永遠のいのちを保証する.信仰によって真にキリストと結ばれている者にとって,キリストの御霊によって有効とされるのである.「見せかけの霊性にだまされ,礼典を儀式主義や形式主義と誤解し,最高の敬虔には必要ではないと考えがちである」(J・マーレイ).それが今日の教会と私たち自身に霊的な貧困をもたらしていることを覚えるべきである.→バプテスマ,聖餐式,主の晩餐,聖餐の聖定,聖餐論.(山崎順治)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社