《じっくり解説》受肉とは?

受肉とは?

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受肉…

「ことばは人([ギリシャ語]サルクス「肉」)となって,私たちの間に住まわれた.私たちはこの方の栄光を見た」(ヨハネ1:14).初めに,いや初めから父なる神とともにおられた子なるイエス・キリストが受肉された.これは驚くべき奥義である.「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と,感嘆して指さすような真理である.それはピリピ2:6‐9に記されるごとく,一つにはキリスト者の模範・手本としての謙卑の極みであり,さらには十字架の贖罪をゴールとする発端であったからである.<復> 福音書を中心として知られるイエス・キリストのたぐいない御性質とみわざに感動して,思想を天に引き上げられることはよい.しかし他方,受肉の救い主を知るということは,人間の罪のゆえにどこまでも低くなり,砕かれ,見捨てられ,のろいを受けられたお方を知ることであり,これも私たちの信仰に欠かしてはならない側面である.ヨハネ1:14の原文[ギリシャ語]ホ・ロゴス・サルクス・エゲネト(直訳「ことばは肉体となった」)の意味するところは,このように深い.<復> これは,現代に生きる私たちにとっても依然として奥義であるが,新約時代の人々にも大きな挑戦であったろう.ギリシヤ哲学及び当時世界の東洋思想は,紀元前以来,善悪二元論を前提とし,(1)神は善なるがゆえに,悪の肉体(物質)を自らとることができない,(2)永遠の神には死はあり得ない,として,キリストの神性を偏重し,人性を軽視していた.聖書自身の表現にも,例えば,創世6:3,ヨブ34:15,詩篇78:39等,肉なる人のはかなさ,むなしさが描かれており,イエス・キリスト御自身のことばとしても,「いのちを与えるのは御霊です.肉は何の益ももたらしません」(ヨハネ6:63)があり,パウロの語る,「肉の思いは死であり,御霊による思いは,いのちと平安です」(ローマ8:6)も,同一線上のものとして理解できる.<復> だが,人間存在の肉なる性質がはかなく,罪に堕ちて後はむなしくさえあるとはいえ,聖書は決して肉を離れて救いを語るのでなく,また何か霊的な追求がより優れた生き方であるようには教えない.「血を注ぎ出すことがなければ,罪の赦しはないのです」(ヘブル9:22)に明言されるように,人間の罪の解決は,まずは霊的事柄でなく,肉体において求められた.旧約聖書に繰り返される,一見煩瑣(はんさ)とも思える贖罪の行為は,私たちの宗教的現実を空想や観念でなく,地上の事実にしっかりと落ち着かせるものである.<復> 受肉のゴールが,肉を裂き,血を流し,贖罪の死を遂げられたことにあるというのを第1の認識とするなら,第2の認識は言うまでもなく,受肉によってキリストが,私たちと全く同じ人間になられたという連帯性にある.「そういうわけで,神のことについて,あわれみ深い,忠実な大祭司となるため,主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした.それは民の罪のために,なだめがなされるためなのです.主は,ご自身が試みを受けて苦しまれたので,試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:17,18).神の御子にいます救い主は,ただひとり栄光と賛美を受けるにふさわしいお方であり,私たちはただひれ伏して礼拝するのみであるが,他方,「主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで,こう言われます.『わたしは御名を,わたしの兄弟たちに告げよう.…』」(ヘブル2:11,12)とある.私たち人間と同じように生活し,飢え,疲れたこともあるお方,限りなく親しく私たちの味方であり,手本である救い主である.<復> 連帯性ということで重要なことは,主の受けられた試みが何であったかである.人間として過された生涯のすべてが試みであったとも言えるが,集中的に考えることのできるケースとして,荒野での誘惑(マタイ4:1‐11,ルカ4:1‐13),ギリシヤ人からの誘い(ヨハネ12:20‐26),ゲツセマネの祈り(マタイ26:36‐46,マルコ14:32‐42,ルカ22:40‐46)等が挙げられる.いずれもが十字架を避けさせようとする試みである.従って,受肉のキリストから私たちが学ぶものは,「だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,日々自分の十字架を負い,そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)に集約される弟子の姿であろう.むろん言うまでもなく,「私たちの弱さに同情できない方ではない」(ヘブル4:15)イエスを知る者として,私たちお互いが「自分も肉体を持っているのですから,苦しめられている人々を思いやりなさい」(ヘブル13:3)といった面も大切な自覚である.受肉のキリストを知ることは,このように,人間存在の肉なる側面を適切にわきまえ,むやみに霊的過激主義に行かしめないものがある.「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です.『キリストは肉において現われ…』」(Ⅰテモテ3:16).<復> ただし,この受肉の秘義が神の聖霊の超自然的な働きによって実現したことは,ぜひ記憶しておきたいことである.使徒信条が適切にも言い表すごとく,「聖霊によりてやどり,おとめマリヤより生れ…」は,まずは聖霊の先行的主権のみわざである.福音書記者ルカが記す,「聖霊があなたの上に臨み,いと高き方の力があなたをおおいます.…」(ルカ1:35)は,生れ出づる者の神性をあかしするが,それ以上に神の主権的行為を告知するものであるとされる.それゆえ,受肉の奥義を知れば知るほど,恐れおののいて救いの達成に励むものとならざるを得ない.<復> 受肉は,確かに神の知恵,神の奥義であるが,イエス・キリストにおいて実現する以前にさかのぼって考えれば,「まさしく,聖書に書いてあるとおりです.『目が見たことのないもの,耳が聞いたことのないもの,そして,人の心に思い浮かんだことのないもの.神を愛する者のために,神の備えてくださったものは,みなそうである.』」(Ⅰコリント2:9)というような不思議なのである.イザヤ53:1‐6に預言されたような救い主を予測することが至難であったということは,そもそもイエス・キリストが生涯のスタート地点で受肉という現実をとられたことを理解することの難しさと,共通するものがある.とは言え,救い主の受肉,幼児としての誕生を単純,平明に受け止めた人々が少数でも存在した事実は,心に留めておきたい.単純な信仰こそが,これを受け止める秘訣である.→処女降誕.<復>〔参考文献〕L・モリス『天よりの主イエス』聖書図書刊行会,1964;『新聖書注解・新約1』いのちのことば社,1973;Kittel, G./Friedman, R., Theological Dictionary of the New Testament, Eerdmans, 1976.(下川友也)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社