《じっくり解説》きよめとは?

きよめとは?

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きよめ…

きよめ([英語]cleansing)に当る聖書中のことばは,旧約聖書においては[ヘブル語]t∵a~ho^r,新約聖書では[ギリシャ語]katharosが主要である.汚れ([ヘブル語]t∵a~me~’,[ギリシャ語]akatharte~s)を祭儀的にまたは道徳的に取り除くこと,及び,その結果として汚れを除去された状態を意味する.おもに三種類のきよめが聖書に見出されると言えよう.<復> 1.祭儀的きよめはモーセの律法に基づく旧約聖書において基調を成すもので,実生活に即した形で汚れときよめが扱われており,取り方によっては,衛生的な教育を含むもの,あるいは異教的な周辺諸国の宗教や文化に対しての警戒的な教育を意図するものと読み得るようにも見える.食用として禁じられたもの(レビ11章),皮膚の諸疾患(レビ13章),肉体的漏出(レビ15章),死体(民数19:11‐19),土地(レビ18:24‐30)などが汚れの内容として述べられているのに対して,祭儀的に,それらに対する清めの儀式,宗教的なきよめの法が示されている.これら,きよめの宗教的方法及び法としては,具体的な指示が明示される.一方においては,きよめのために水(レビ15:5),血(同14:25),火(民数31:23)が用いられ,また犠牲や献納品がささげられたりすることが定められているが,他方,ある特定の期間という時を費やす場合も定められている.これらの記述から,先に述べたように,衛生的,教育的な意図のみを持つものと見る者もある.しかし,それらを含むものではあっても,さらに深い真意,すなわち,後の日に救い主を通して成就すべき,人の内的な汚れからのきよめを象徴する,象徴的な意味を持ったものというところがあると理解すべきであろう.さらに,イスラエルの民に,神が汚れの神ではなく聖き神であるという事実に基づき,神の民の聖くなければならぬことを教える意味をも含んだことであったととれる(レビ19:2).究極的には民自身が汚れと離別し,存在と生活において聖別された民となるべきことが,モーセの律法を通しての神の教育の目的なのであるが,汚れと聖きの全く相いれぬものであることを感覚的にもとらえさせるために厳しい法と規定が定められていたのである.ことに,祭司が清きものと汚れたものとの区別に関して厳しく教えられていることにも,それは顕著である(レビ10:10).そして,この神の意図は旧新約を貫き,今日にまでも不変性を持つものである.そのことは,ペテロによる言及が新約聖書に見られることにも現れている(Ⅰペテロ1:15,16).<復> 2.身体的きよめに関しては,福音書の時代に主が直面された,パリサイ人や律法学者の主張に見られるように,身体のきよめはユダヤ人の間では重要なことであった.マタイ15:1‐20に弟子たちが「手を洗っていない」でパンを食べることに関しての一連の問答がある.一般のユダヤ人の理解では,身体を洗うことが,人を全面的にきよくするものとされがちであったのに対して,主の評価と教えは,手を清くすることが即,心を清くするものではないこと,人には外面より,さらに深い内的な汚れがあることにあった.それは心の汚れで,心から出てくるもの,「悪い考え,殺人,姦淫,不品行,盗み,偽証,ののしり」となる罪であることへの言及であった(マタイ15:19).それに対して身体のきよめは無効であることを示しつつ,主は,福音書に記される御生涯のみことばとみわざを通して,解決が十字架に,世の罪を取り除く神の小羊なる御自身にあることを示しておられるのである.一箇所,主が身体的きよめを勧めておられるように見えるのは,マタイ6:17である.断食の備えとして「自分の頭に油を塗り,顔を洗いなさい」とある.ただし文脈から,これは「断食していることが,人には見られない」(同6:18)ためであり,きよめのための所作ではないことがわかる.<復> 3.道徳倫理的きよめは新約聖書の強調するものではあるが,旧約聖書になかったものではない.むしろ,旧約の記者たちを通して神のことばは,明らかにこれを伝え続けている.一例として,エゼキエル36:22‐27は顕著である.道徳的,倫理的と言う時,世の言う道徳倫理という外形的な表現に重きを置いたもの,形さえ,行状さえよければ良いとするものと,聖書の言うそれとでは質的な相違がある.聖書の示す道徳的倫理的きよめは,神との関係にあっての問題である.神の御前にあって,神の御目の前での心の純潔と,それを根源とした清き生活の問題なのである.主は,単なる外形的なきよめをのろいの対象とさえしておられる.「忌わしいものだ.偽善の律法学者,パリサイ人たち.あなたがたは,杯や皿の外側はきよめるが,その中は強奪と放縦でいっぱいです.目の見えぬパリサイ人たち.まず,杯の内側をきよめなさい.そうすれば,外側もきよくなります」(マタイ23:25,26).新約聖書を貫いて神のことばの命令するこの内的きよめと,その働きとして出てくる外的生活のきよきは,人が自分のわざとしてその内的きよきを成就または獲得できるものとされてはいない.パウロの祈りは「平和の神ご自身が(「ご自身が」は原語では強調的),あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように」であって,人の心をきよくすることは神御自身の働きであること(Ⅰテサロニケ5:23),「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」がヨハネのことばであり(Ⅰヨハネ1:7),内的きよめと刻々のきよめは御子の血の力によること,また,その獲得は単に「信仰によって」(使徒15:9)であることが,新約聖書の示すところである.テサロニケの教会へのパウロの手紙は,神のみこころはクリスチャンたちが聖くなること(Ⅰテサロニケ4:3)であり,クリスチャンたちが神に召されたのはきよきを得させるため(同4:7)であることを述べた後に,そのことをクリスチャンの心と生活に実現される聖霊にことばが及んでいる.「ですから,このことを拒む者は,人を拒むのではなく,あなたがたに聖霊をお与えになる神を拒むのです」(同4:8).内在の罪にあえぐ新生したクリスチャンの求める心と生活のきよき,まじめな仏教徒や,儒教・道教の道に心と生活のきよきを求める多くの日本とアジアの人々,さらにはヒンズー教を初め多くの求道・探求的宗教にきよきの道を求めるすべての人に対して,御子イエス・キリストにこそ答があり,きよめの力が存在することを聖書は示している.「神のみこころ」であるキリスト者のきよき(Ⅰテサロニケ4:3,7)が信仰者の心と生活に具体化されるための力は「御子イエスの血」(Ⅰヨハネ1:7)にあり,きよきをもたらす働きは聖霊なのである(Ⅰテサロニケ4:8).→聖化,聖別,聖,罪の赦し.(蔦田公義)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社