《じっくり解説》教派主義とは?

教派主義とは?

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教派主義…

Denominationalism(教派主義)という用語は,福音主義やエキュメニズムなどと違って,一般になじみのないことばである.使用される場合は否定的意味合いが強く,分派主義に近い意味で理解される.例えば1927年の英文月刊雑誌The Japan Christian Intelligencerに,内村鑑三の次のような一文がある(原文は英語).「彼ら(欧米のクリスチャン)は自らをクリスチャンと呼びながら,実際にはクリスチャンの数だけキリスト教教派が存在する有様である.各自が自分自身の教派をつくり,他のすべての人々に自分と全く同じように信じさせようとする.…政治的党派より数が多いものは宗教的党派のみである.ロンドン市だけで約600の違った教会があると言われている.すべてキリスト教会でありながら,すべて違っている.そして一つとして一致を見出せるものはない.しかも一つのおもな教派には,さらに何ダースもの分派があるという始末である.例えば,メソジスト教会は一つの教派ではない.そこにはたくさんのメソジスト教会がある.プロテスタント・メソジスト教会,合同メソジスト教会,プリミティブ・メソジスト教会,カルヴァン主義メソジスト教会,北メソジスト監督教会,南メソジスト監督教会,カナダ・メソジスト教会等である.同じことが長老派にもバプテストにも,多かれ少なかれアングリカンやルーテル教会についても言えるであろう」.ここで内村は,教会,教派,分派という語をあまり区別しないで使っているが,欧米から日本へ持ち込まれてきた教派主義の否定的な面に対する嫌悪の感情がよく現れている文章である.<復> けれども教派主義は特に,アメリカの背景において積極的な意義を有していると言えよう.1830—67年フィラデルフィア第1長老教会の牧師を務めたアルバート・バーンズは次のように言っている.「教派主義の精神とは,あらゆる狭量性と非情性に反対するものである.他のクリスチャンたちを教会でないと誹謗したり,秘密集会のような集りと決めつけたり,分派主義者と呼んだり,神の契約の恵みからもれていると非難する精神と反対である…キリストの教会は絶対的に監督制でなければならないとか,バプテスト,メソジスト,長老派,会衆派でなければならないなどと主張できるものではない.これらすべての教派は,それぞれの意図と目的を持ちつつ,一つの聖なる公同教会の一部なのである」.言い替えれば教派主義とは,アメリカの政治における宗教の自由の精神に並行する,各教派間の寛容と一致の精神を表明する表現である.すなわち,教会政治や礼拝様式の相異にもかかわらず,キリスト信仰の一致のゆえにお互いを認め合う精神なのである.これに対して分派主義とは,自己の教派の教義や礼拝様式の絶対性を主張し,他の教派のやり方を非難し,ついにはその存在をも,救いの確実性を保証しないとして否定する立場である.元来「教派」という用語はすぐれて宗教社会学的なもので,「教会」(church)・「教派」(denomination)・「分派」(sect)の3用語の対比の中でとらえられることが多い.マックス・ヴェーバーは,客観主義的・伝統的秩序を重視する制度的宗教集団と,信仰の主観的展開を強調し特定の運動として拡大する集団とを考えた.前者はルーテル教会や聖公会のような領邦教会であるとし,後者はメノナイトやバプテストのような教会で,ヴェーバーによれば「分派」(sect)として理解される.そしてアメリカのような政教分離社会に存在する目的集団としての「教派」(denomination)を信仰告白集団として考えている.この考えを進めたのがトレルチュである.彼によれば,「教会」とは神秘的な使徒権をよりどころに,教会の普遍的な道義的支配を主張する制度的組織であり,「教派」とは,十分独立していけるだけの神学的,組織的成熟を示した宗派で,信徒が自発的に参加する目的集団であるとした.また「分派」では,創始者の体験を中心に信徒の体験的信仰が組織のエネルギー源となり,神学的には未成熟で非体系的であることが多い.さらにH・R・ニーバーは,アメリカのような開かれた社会では,宗派は必然的に「自発的に参加する目的集団,機能集団」とならざるを得ず,このような政教分離社会における宗派を教派(denomination)と名付けるべきであると述べた.そしてこれらの競合する目的集団の間に生起する,組織としての集団エゴに警告を与え,エキュメニズムの精神による普遍教会への再組織の必要性を強調した.<復> 宗教改革後,礼拝様式や教会政治に多くの主義主張が現れ,それによって多くの教派教会が出現したが,これらの歴史性を承認しつつ,相互共存の精神をもって,排他的な分派主義を強く否定するものが教派主義であると言うことができよう.もともと聖書の中には,教派の存在を容認するようなテキストはない.またパウロは分派的傾向に強く反対している(Ⅰコリント1:10‐13).それゆえ教派主義とは,教会の公同信条及び宗教改革の基本原則に立ちつつも,礼拝様式や教会政治において,自己の聖書解釈に立つ伝統や習慣性を強く保持しようとする立場であるとも言えよう.それはヨハネ17:20‐23にあるイエスの祈りを自己のものとしながらも,巨大な組織的一致の達成が必ずしもこの祈りの実現ではないことを知っている立場である.しかしまたそれは,自己の教派の絶対性を主張したり,地域における交わりのない閉鎖的な宗教共同体保持に満足する態度でもない.要するに教派主義とは,組織的に巨大な一致を求める″エキュメニズム″精神でもなければ,自己の絶対性を主張し閉鎖的な宗教共同体形成に専念するのでもなく,歴史的現実性の中で聖書の基盤の上に立って,いつも新しく改革され,キリストのからだなる教会の真の一致を追い続ける開かれた姿勢を意味するものでなければならない.<復> 現在日本において,教派,教団の存在を認めつつ,聖書的信仰という基盤に立って日本福音同盟(JEA)が形成されたが,これがよい意味で教派主義の精神を生かすものとなるためには,単なる組織的拡大を求めたり,一方的に自由主義に対決する立場を強調するばかりであってはならない.むしろこのような同盟の形において,聖書の光に照らされて神の教会がますますきよめられ,神の教会としての機能—救霊のわざ,世に対する預言者的発言,奉仕のわざ,霊的一致による礼拝など—が,加盟教団,加盟教会を通して,よりよく発揮されるものでなければならない.→教派,教会・教会論,エキュメニカル運動.<復>〔参考文献〕H・R・ニーバー『アメリカ型キリスト教の社会的起源』ヨルダン社,1984.(鍋谷堯爾)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社