《5分で分かる》幼児の救い(幼児の義)とは?

幼児の救い(幼児の義)とは?

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幼児の救い(幼児の義)…

[英語]Infant salvation.これは,まだ自分自身で罪を犯していない幼児が,また自分自身で信仰を告白できない幼児が,(出生を前後して)死を迎えた時,その救いはどうなるのか,という問題に関する教理である.<復> イエス・キリストが子供を天国に近い存在として御覧になっていたことは,確かである.主は子供たちをみもとに引き寄せ,「子どものように神の国を受け入れる者でなければ,決してそこに,はいることはできません」と言われて,子供の上に手を置いて祝福された(マルコ10:13‐16).またある時は,「このような子どものひとりを,わたしの名のゆえに受け入れる者は,わたしを受け入れるのです」(マタイ18:5)と言われて,神の国における子供の価値を高く評価している.<復> 幼児の救いという問題に関して神学的な出発点を最初に提供したのはアウグスティーヌスであった.人間は生れながらにして罪人であり,アダムの堕罪の事実は人間の性質の中に継承されている.「ひとりの人によって罪が世界にはいり,罪によって死がはいり,こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12)という原罪の教理である.となれば,生れて間もない幼児も罪の性質を内に秘めており,神の恵みによらなければ,神の子供となることはできない.この原罪の教理は,それ以来,カトリック,プロテスタントを問わず,キリスト教の正統的教えに組み入れられてきた.<復> 原罪をもって生れてくる幼児の救いに関して教会の歴史は,大別して二つの方法で考えを進めてきたように思われる.(1)原罪に対処する恵みの手段としての洗礼(バプテスマ)を幼児にも授ける方法と,(2)洗礼の恵みでなく,先行的恵み(gratia proeveniens)から積極的に考えを進めていく仕方である.<復> (1) 幼児洗礼とは,幼児が背負って生れてきた罪に赦しを与え,神の家族に迎え入れる恵みの手段である.この場合,洗礼とは,本人の積極的な信仰告白ではなく,罪の洗いきよめの約束が,教会という共同体の信仰に支えられて,幼児の中に成就すると考えられる.<復> では,洗礼を受けないで死を迎えた幼児の運命はどうなるのであろうか.確かに,カトリック思想の中には,洗礼を通してなされる新生の恵みは洗礼以外の手段では受けることができないとする考え方がある.そうなればそうした幼児は,まだ自分で罪を犯していないので積極的なさばきは免れられるものの,持って生れた罪の性質のため,天国に入っても聖なる神を仰ぎ見ることはできないという結論も登場する.だが,プロテスタント思想は,洗礼が神によって定められた恵みの手段であることは強調するが,洗礼の絶対的必要性をいかなる場合においても固守するものではない.緊急の場合や洗礼を施す機会がなかった場合でも,神の家族に与えられた約束のゆえに,恵みは幼児に施されているとカルヴァンなどは考えている(参照カルヴァン『キリスト教綱要』4:15:20).無論こうした論議は,幼児が生れてくる時すでに信仰の環境ができあがっている,というキリスト教社会であるとの前提がある.また,「ウェストミンスター信仰告白」に述べられているように,幼児が死を迎えた時,洗礼の有無にかかわりなく天国へ行けるが,それは救いに選ばれた幼児(elect infants)に限られるという,前提がつけられている(5:3).<復> (2) もう一つは,ウェスレアン・アルミニアン神学の系統から主張される立場である.ウェスリ(ウェスレー)は,アダムの罪責は全人類の肩にのしかかっているとしながらも,「それだけのために,さばきに定められることはない」(The Works of John Wesley, Vol.6, p.240, Baker)としている.ウェスリは,アダムから受け継ぐ原罪を,アダムから受け継いだ罪責(original sin imputed)と,受け継いでわれわれのものとなっている罪の性質(original sin inherited)との二つの局面からとらえていた.そして,神のさばきのよりどころとなるのは,アダムから自動的に受け継いだ罪責ではなく,罪の性質にのめり込んで実際に自分で犯していく罪であると言う.ここでかぎとなるのは,すべての人に与えられる先行的恵みである.キリストが「すべての人を照らす…光」(ヨハネ1:9)であり,「すべての人のために死なれた」(Ⅱコリント5:15)ことにより,その恵みは,キリストの十字架と復活に関する明確な知識を持っている人々ばかりか,その知識を受けていない人々にも部分的に及んでいると主張する.先行的恵みは人類全体に及び,罪の破局に歯止めをかける「良心」に現れている.福音を耳にしたことがない異教の人々は,アダムの罪責のゆえでなく,良心という恵みの所産に逆らい,罪の性質に従って自分で犯していく罪のゆえに,さばかれることになるのである.<復> 幼児はどうであろうか.もちろん,先行的恵みは幼児にも及んでいる.幼児は自分の判断で罪を犯すことをしないばかりか,与えられている恵みに逆らうこともできない状態にある.この幼児が死を迎えたとしたら…ウェスリは言う,「幼児は,アダムの罪の責任のゆえに地獄に送られることはない.彼らがこの世に生れ出ると同時にキリストの義がアダムの罪責をおおうからである」(Letters, Vol. 6, pp. 239—40).キリストの義は先行的恵みを通して全人類に及び,アダムの罪の責めをわれわれの肩から下ろしてくれる.この立場からは,死を迎えた幼児は,信仰の家族という背景のあるなしにかかわらず,天国に召されたと信じることができるのである.→救い,義,原罪,恵み,恵みの手段,バプテスマ,選び,アルミニウス主義.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社