《5分で分かる》トリエント公会議とは?

トリエント公会議とは?

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トリエント公会議…

[ラテン語]Concilium Tridentinum,[英語]Council of Trent.1545年から1563年にかけて,ローマ・カトリック教会が対抗宗教改革の一環として,おもに神聖ローマ帝国領内のトリエント(現在のイタリア北東部のトレント)において開催したもので,同教会により第19回世界教会会議と認められた公会議である.<復> 1.対抗宗教改革.<復> トリエント公会議は,ローマ教皇レオ10世がルターの教説を異端とする教勅(Exsurge Domine)を発し,ルターがそれを焼却をもって抵抗した1520年から25年を経てようやく開催された.この遅れは結果的にはプロテスタント宗教改革を前進させ,カトリック教会の対応を時機を逸した対抗的なものにした.その原因の多くは,いわゆるルネサンス教皇の改革への積極的姿勢の欠如もさることながら,ヨーロッパ列強間の対立情況によるものであった.例えば,ルター派の宗教改革が進んでいた神聖ローマ帝国の皇帝カール5世は,早くより教皇の支配から独立した会議を帝国領内で開いて教会の分裂を解消し,改革を進めることを提唱していた.しかし,フランス国王フランソワ1世と,教皇指導型でプロテスタント勢力を阻止するための会議を主張する教皇庁との拒否にあった.公会議に向けての実質的な動きは教皇パウルス3世の登場(1534年)に始まり,有能な人材を登用して結成させた委員会が「教会改善建白」を答申し,列強間の調整が進む中で次第に機は熟していった.英国教会がローマから離脱独立し,プロテスタントとの教理上の妥協を模索した一連の宗教討論(1540—41年)が失敗することもあったが,その中でパウルス3世は対立する皇帝とフランス国王の同意を取り付け,ようやく1545年に公会議開催を実現した.<復> トリエント公会議は3教皇のもとに3会期にわたり長期に開催されることとなった.パウルス3世時代の第1会期(1545—48年)には10会議(最終2会議はボローニャにて)が行われ,聖書と伝承(第4会議),原罪(第5会議),義認(第6会議),秘跡(第7会議)に関する教令を制定した.教皇ユーリウス3世時代の第2会期(1551—52年,6会議)は再びトリエントに戻り,聖餐(第13会議),告悔と終油(第14会議)に関する教令を制定したが,ドイツでカール皇帝に対する諸侯の反乱が発生したため休会となった.教皇ピウス4世時代の第3会期(1562—63年,9会議)は,フランスにはカルヴァン派教会の台頭があり,教皇側ではイエズス会の影響が増す中で開始され,ミサ(第22会議),叙階(第23会議),結婚(第24会議),煉獄・聖人崇拝等(第25会議)に関する教令を制定し1563年閉会した.翌年ピウス4世は公会議の教理要綱を「トリエント信仰告白」として公にし,次の教皇ピウス5世は1566年に「トリエント公会議教理問答」を作成させ,プロテスタントに対するカトリック信仰を明らかにした.<復> 2.会議の成果.<復> パウルス3世の公会議招集の教勅によれば,会議の目的は教理上の分裂をいやすこと,教会の改革と教会内の平和達成,オスマン・トルコに対する十字軍に関する協議,の3点であった.しかし,公会議の成果により実質的な教会改革は見られたものの,旧・新両教間の分裂を扱うには程遠いものとなった.これは,プロテスタントや神聖ローマ皇帝に支持された,教会の意見を広く自由に代表させ得る教会会議至上主義(Conciliarism)が後退し,教皇至上主義(Papalism)が支配的となったこと,また,会議運営に関してプロテスタントの参加が実質的に阻止され,イタリアの主教,修道院長,修道会総長の数が他のスペイン,フランス,ドイツの代表を圧倒したことなどにより対抗宗教改革色が強くなったことによる.当然,教理に関しても,プロテスタントの「ただ聖書のみ」の原理に対しては,当時「啓示の二資料説」と呼ばれた,聖書と教会の伝承双方を認める立場をとり,「ただ恩恵・信仰のみ」の原則に基づく信仰義認論に対しては,義認が自由意志による選択や聖化の全行程を含むとする立場をカトリック教義とした.また,洗礼(バプテスマ)と聖餐のみを聖礼典とするプロテスタントの立場を退け,七つの秘跡を聖礼典として再確認し,それらが「自動的に働く」(ex opere operato)固有の効力を持つとし,さらに聖餐に関してはルターの遍在説やツヴィングリの象徴説を否定して化体の教義を再確認した.公会議の成果として2点を挙げるならば,第1は,中世カトリシズムの伝統を再確認したと言われる公会議が,同じくその伝統と取り組んだルターや他の宗教改革者の神学を退けることにより,西方教会の伝統を自らで狭めることとなり,プロテスタント教会との対話を不可能にしたことである.第2は,理想的とは言えないまでも教会の当面の必要に応えて,ローマ・カトリック教会の立て直しとプロテスタント勢力に対する巻き返しを可能にしたことであった.→プロテスタント宗教改革,対抗宗教改革,ヴァチカン公会議,教会会議.<復>〔参考文献〕H・デンツィンガー編,A・シェーンメッツァー増補改訂『カトリック教会文書資料集』エンデルレ書店,改訂3版1988;Jedin, H., A History of the Council of Trent, 1957—.(丸山忠孝)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社