《5分で分かる》ヤンセン主義とは?

ヤンセン主義とは?

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ヤンセン主義…

オランダ北部アコイ出身で,ルーバン大学神学教授となり,後にイーペル(Ieper;またはイープル,Ypres)の司教となったコルネーリーユス・オットー・ヤンセン(Cornelius Otto Jansen;[ラテン語]Jansenius,ヤンセニウス;[フランス語]ジャンセニウス)(1585—1638年)と,ジャン・デュヴェルジェ・ド・オランヌ(Jean Duvergier de Hauranne)(1581—1643年.院長を勤めた修道院の名を付けて「サン・シランの神父」〔[フランス語]アベー・ド・サン・シラン,Abbe´ de Saint‐Cyran〕とも呼ばれる)とに発し,17,18世紀のフランスを中心に展開した霊的覚醒運動で,アウグスティーヌス主義の流れである.本来は宗教刷新運動であったが,ガリカニズム(フランス教会独立権強化主義)と教皇庁との権力闘争に巻き込まれて異端宣告を受けたり,ルイ13,14世治下の専制体制と衝突して政治的危険分子として抑圧されたりした.<復> 1.背景.<復> 神の恵みと人間の自由意志との関係を巡り,当時のスコラ学的理解に疑問を投げかけてアウグスティーヌス主義の再興を図った人物に,ベルギーの神学者でルーバン大学教授のミシェル・バーユス(Michel Baius)(1513—89年)がいた.当時,アウグスティーヌスの絶対的な恵みの立場と半ペラギウス主義とを調和させたイエズス会神学者ルイス・デ・モリナ(Luis de Molina)(1535—1600年)の静寂主義的見解が優勢であった.バーユスは,聖書や教父,特にアウグスティーヌスのペラギウス派駁論を70回も精読したという研究に基づいてモリナ主義を論駁したが,逆に非正統的と断罪された.しかしバーユス主義はオランダに残り,ヤンセン主義の中に根を下ろした.<復> 2.起源.<復> ヤンセンとアベー・ド・サン・シランとは,バイヨンヌ郊外,カン・ド・プラで,アウグスティーヌス研究に励んだ.ヤンセンの遺著『アウグスティーヌス』3巻(1640)は,人間は原罪により情欲の奴隷として罪の悲惨のただ中にあるので,善をするためには恵みが注がれて「情欲への自由意志」を,「勝利の喜び」(delectatio victrix)により,聖霊の喜びへ転じる必要があると,神の恵みの絶対性を説く.この書への反論は激しかった.特にイエズス会士たちは,神による人間救済への普遍的な意志や,人間の自由意志の存在意義をヤンセン主義が抹殺することを恐れ,その断罪処分に奔走した.紛争の発端は,1649年,パリ大学神学部入学資格者の論文に現れた異端的7命題の告発という形での,ヤンセン派告発であった.その命題とは,以下の通りである.「神のおきて(十戒)のあるものは,義人さえ守り得ぬこと.堕落した本性の状態では人は内的恵みに抵抗できぬこと.同状態では,人の功徳や罪は,内的な強制から自由でなく外的強要からの自由を必要とすること.半ペラギウス派は,個々の行為,さらに信仰の開始にも,先行する内的恵みの必要を認めていたこと.彼らは,人間の意志が内的な恵みに反抗したり服従したりできることを欲している点で異端であったこと.イエス・キリストが除外例なく万人のために死に,血を流した,というのは半ペラギウス的感情であること」.<復> 3.紛争.<復> ヤンセン主義の,神の恵みの神学は,潜在的な信仰者勢力としてポール・ロワイヤルに生き続けた.ポール・ロワイヤルとは,パリの西南約30キロにあったシトー会修女院で,サン・シランの弟子アントワーヌ・アルノー(Antoine Arnauld)(1612—94年)の指導で急激な発展を遂げ,ヤンセン派の拠点となった.一方,教皇ウルバーヌス8世は紛糾を恐れ,神の恵みについての論議を禁止した.ヤンセン派は,上記の命題がヤンセンの書物に見当らないこと,彼の記述はアウグスティーヌスに忠実であることを挙げて反論したが,インノケンティウス10世の教書による異端宣言(1653年)となった.アルノーとともに抗議したパスカルの『田舎人への手紙』(プロヴァンシアル)も断罪され,聖職者はすべて「信仰宣誓書」への署名を強要されることになった.ポール・ロワイヤルは1711年に破壊された後急速に退潮するが,資料は収集され後に伝えられた.→ペラギウス・ペラギウス主義,半ペラギウス主義,アウグスティーヌス.<復>〔参考文献〕L・コニェ『ジャンセニスム』白水社,1966;飯塚勝久『フランス・ジャンセニスムの精神史的研究』未来社,1984.(岩本助成)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社