《5分で分かる》試みとは?

試みとは?

試み…

おもに[ヘブル語]マッサー,[ギリシャ語]ペイラスモス.試練,試すこと.その人の心の中にあるものが何かを知るために試みる.また,試練によってその人をより強くし,より純粋にする.キリスト者は試みられて鍛えられる.成長したキリスト者とは,試みられたキリスト者である.信仰の父アブラハムも神に試みられた(創世22章).「あなたの子,あなたの愛しているひとり子イサクを連れて,モリヤの地に行きなさい.そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で,全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世22:2).アブラハムは神のこの試みに従い,翌朝早くイサクを連れてモリヤの地に行き,イサクを縛って祭壇のたきぎの上に置き,刀を取って自分の子をほふろうとした.すると,神はそれをとどめ,「あなたの手を,その子に下してはならない.その子に何もしてはならない.今,わたしは,あなたが神を恐れることがよくわかった.あなたは,自分の子,自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(同22:12)と言われた.この試みによりアブラハムは,本当に神を恐れる者であることを神に知っていただき,自分も知ることができた.さらに,神には人を死者の中からよみがえらせることができるという復活信仰を確立され(ヘブル11:19),神がすべての必要を備えることのできる方であることを知った(創世22:14).<復> イエス・キリストも試みられた.メシヤとしての公生涯に入る直前に,悪魔の試みをお受けになった(マタイ4:1‐11).その試みは,イエス・キリストに十字架による贖罪の道を踏み外させようとするものであった.イエス・キリストはその試みに勝利して,十字架の死による贖罪の道をいよいよ明確にされ,死に至るまで忠実に歩まれた.<復> すべてのキリスト者が試みられる.それは人の心の中にあるものが何であるかを知るためである(エレミヤ17:10,20:12).また,「見よ.わたしはあなたがたのために,パンが天から降るようにする.民は外に出て,毎日,1日分を集めなければならない.これは,彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを,試みるためである」(出エジプト16:4)とあるように,主の教えに従うかどうかを試みられるのである.試みるのは神である(箴言17:3,エレミヤ17:10).さらに,神の許しのもとにサタンが試みる場合もある(ヨブ1,2章).主イエスに対する試みは,サタンによってなされた.人が試みに遭う時,神は必ず脱出の道を備えて下さっていることを心に留めることが大切である(Ⅰコリント10:13).脱出の道とは逃げる道ではない.神の御心のうちに確立され,勝利へと導く道,神が備えて下さる祝福の道である.「主は,ご自身が試みを受けて苦しまれたので,試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18).<復> 聖書は,人が神を試みてはならないと厳しく命じている(申命6:16).昔,多くの人が主を試みたために滅ぼされた.「私たちは,さらに,彼らの中のある人たちが主を試みたのにならって主を試みることはないようにしましょう.彼らは蛇に滅ぼされました」(Ⅰコリント10:9).しかし,神は聖書の中でただ一度だけ,神を試みてもよいと挑戦しておられる.それは十分の一と奉納物によってである.「十分の一をことごとく,宝物倉に携えて来て,わたしの家の食物とせよ.こうしてわたしをためしてみよ.—万軍の主は仰せられる.—わたしがあなたがたのために,天の窓を開き,あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(マラキ3:10).これは,人が神を試みるということと同時に,金銭や持物にとらわれやすい人間を神が試みて下さる神からの試みとも言うことができよう.人は試みを通して信仰から信仰へと引き上げられ,聖書のことばが真実に神のことばであり,みことばに信頼することがどんなにすばらしい祝福であるかを教えられ,訓練される.<復> 悪魔は試みの機会に乗じて人を誘惑し,キリストから引き離そうと試みる.そこでキリストは信仰者のために絶えず祈っていて下さる(ルカ22:31,32).そして,「なぜ,眠っているのか.起きて,誘惑に陥らないように祈っていなさい」(ルカ22:46)と励ましていて下さる.祈りを通して,試みに勝利されたイエス・キリストに目を向け,キリストに信頼していくことが,試みを祝福に変える秘訣である.また,試みられている人々のために祈り合うことは大切な神の御心である(ルカ22:32).→誘惑,患難,悪魔論.(千田次郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社