《5分で分かる》教理と教義とは?

教理と教義とは?

教理と教義…

教理(<英>doctrine)と教義(<英>dogma)とは,時には同意語として用いられる場合もあるが,厳密には,区別して用いられる.<復> 教理とは,聖書に記されている神の啓示の諸真理についての教えであって,しばしば,それの素朴な表現であり,必ずしも学問的に精密に定式化されていない.定式化されていたとしても,私的定式化にすぎず,教会会議によって公的に定式化されたものではない.<復> それに対して,ドグマ(教義)はギリシヤ語ドケインから派生した言葉であって,新約聖書では,カイザルの勅令(ルカ2:1,使徒17:7),エルサレム会議の決定事項(使徒16:4),モーセ律法の戒め(エぺソ2:15,コロサイ2:14)のように,公的な裁定また布告の意味で用いられている.それでドグマは,教会では,公的に定式化された諸信条を意味するために用いられるようになった.すなわち,教義とは,教会が教理を熟考し,聖霊の導きのもとに,最終的には教会会議によって公式化され,教会の公的信条という形をとるようになった教理である.<復> 要約すれば,教理とは,聖書にある神の啓示の諸真理の,教会未公認の教えであり,教義とは,教会公認の教理である.しかし,教会の聖書研究の進展とともに教義の内容にも進展が見られ,また論争を通して修正変更も見られるのは当然である.<復> 教義は教理についての教会の熟考の結実であるが,教会の熟考とは,プロテスタントの場合,キリストのからだなる信者の普遍的共同体の熟考という意味である.それに対してローマ・カトリックの場合は,教皇をキリストの無謬の代弁者とする位階制教会の中の教職階級によって構成されている「教える教会」の熟考を意味する.<復> それゆえ,ある教義が真理であると宣言される時は,ローマ・カトリックの場合は,聖書の権威よりもむしろ「教える教会」の権威に基づいて宣言される.それは無謬の教皇の裁可を得ているので,変更されたり改正されたりすることはない.「教会によって定められた教義に,科学の進歩にしたがって,ある時には教会が過去に理解し,現在において理解している以外の意味を加えられるべきである,と言うものは,排斥される」(参照「カトリック文書資料」p.456,第1ヴァチカン公会議第3総会第4章の教義宣言).しかしプロテスタントの場合は,教義の権威は,直接聖書に基づくので,聖書の教えを正しく定義しているのでなければ権威を主張することはできない.しかし,教義は誤り得る信者の共同体である教会の熟考の結実であるので,しばしば教理論争によって決定され,訂正され,深められていく.従って,聖霊の導きのもとに最終決定に至るまでは無謬のものではなく,変更,修正,補足を不要とはしない.しかし,誤り得る教会の熟考の実であるからといって,教義を信用するに価しないと軽んじてはならない.聖霊の導きのもとに,教会によって定式化されてきたものであるので,高度の信憑性また安定性を帯びているものとして尊ばねばならない.教会の教義を軽んじることは,教義形成を導いてこられた聖霊を軽んじることになる.<復> 近代主義キリスト教の場合は,教義作成のための資料は,神の客観的啓示である聖書ではなく,聖書によって覚醒された信者の宗教的意識また経験である.リッチュル派の見解によれば,宗教共同体は宗教体験を熟考して,最終的には,何らかの合法的機関(教会または国家)によって公的に表明することにより,経験を教義に変えていくのであると考えられている.新正統主義のK・バルトの見解によれば,教義とは,誤りなく書かれた神のことばである聖書において教えられている客観的真理を教会が熟考した実ではない.信者の共同体である教会が,神についての信者の誤り得る証言である聖書を媒体として,神について証言してきた証言の自己検証の実だとする.<復> しかし,聖書を無謬の神のことばであるとする正統的プロテスタントの立場に立てば,教義とは,教会が無謬の神のことばである聖書を学び,そこに教えられている教理を熟考して得た実を,自らの口をもって公的に,神と人の前に告白した教理である,と言うことができる.→教義学,権威,教会会議.<復> 〔参考文献〕Berkhof, L., The History of Christian Doctrine, Banner of Truth, 1979; Littonh, E. A., Introduction to Dogmatic Theology, James Clarke, 1960.(松田一男)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社