《5分で分かる》聖別とは?

聖別とは?

スポンサーリンク

聖別…

[英語]consecration,[ドイツ語]Weihe.聖別とは,人もしくは物が,俗な,汚れた領域から移されて,神との特定な関係へと分離されることを言う.そもそも旧約聖書において「聖」([ヘブル語]語幹q‐d‐s▽)という概念は,その基底に分離という意味を持っている.神は,有限な被造物から本質的に分離し,それを超越しているという意味で聖なる存在である.汚れたものは,この神に近付くことさえできないが,聖別という行為によって,それが許される.聖別は神の側からの働きかけであり,それは贖いの血によってなされる(レビ16:30,ヘブル9:11‐13,10:10‐13,Ⅰヨハネ1:7).同時にそれは,聖別される側の主体的献身でもある.モーセはアロンとその子らを主にのみ仕える祭司として聖別するように命令を受け(出エジプト40:13,29:1),また祭司や聖なるイスラエルの民は汚れた物や行いから身を引き,その身をきよめるように(出エジプト19:22,レビ18章)言われている.このように,神のために世俗から取り分けられ,御前に近付き仕えるようにされた者こそが,「主の聖なるもの」(エズラ8:28)と呼ばれている.これは特定の月日でも,幕屋でも,衣服でも,祭壇でも,民全体でも同じである.<復> 新約聖書における「聖」(ハギオス)という概念も,「だれでも自分自身をきよめて,これらのことを離れるなら,その人は尊いことに使われる器となります」(Ⅱテモテ2:21.参照ヨハネ17:19,ローマ6:19)の聖句に代表されるように,この世から呼び出され,神に属する者とされたという分離を意味している.その意味で,罪を洗いきよめて教会という聖なる共同体に迎え入れられるバプテスマ(洗礼)は聖別行為であるし(ヘブル6:2),福音宣教の任務に取り分けられることも聖別である(使徒13:2).もともと,われわれのきよめのために御自身を聖別されたのはキリストであり(ヨハネ17:19,Ⅰコリント1:30),われわれをきよめるのもキリストのみわざである(Ⅰコリント6:11,Ⅰテサロニケ5:23,Ⅱテサロニケ2:13).だが同時にきよめられる側には,神との特別な関係へときよめられるために,自分自身を「ささげる」(パリスタノー)ことが要求されている(ローマ6:13,19,12:1).<復> 聖別によって生じる神との特別な関係にさらに言及すると,聖別されて神のものとなるということは,契約上の絶対的忠誠を意味している.すなわち,神に対して聖別されることには,同時に他のライバルとなるような関係や接触をすべて断ち切ることが含まれている.例えば,レビ20:7,8に「あなたがたが自分の身を聖別するなら,あなたがたは聖なる者となる…わたしはあなたがたを聖なる者とする主である」とある.ここで要求されていることは,モレクに対する礼拝を断ち切り,霊媒や口寄せのところに赴くのをやめることである.なぜ,そうした神々との接触を断ち切らなければならないのか.それは,異教の神々でなく,主こそが彼らの神であり,彼らは主にのみ属するものだからという契約関係に話は戻ってくる(民数15:41,エゼキエル37:26,27).新約聖書でも,主が弟子たちを「あなたが世から取り出してわたしに下さった人々」と呼び(ヨハネ17:6),パウロが,血の代価によって贖われたわれわれが「もはや自分自身のものではないことを,知らないのですか」(Ⅰコリント6:19)と詰め寄っているように,やはり特別な契約関係が意味されている.ここで留意しておくべきことは,他の関係を切り放して自らを相手方へと聖別することはわれわれだけでなく,神の側にも該当するということである.イスラエルをエジプトの地から連れ出したのは「わたしがあなたがたの神となるため」(民数15:41)であったと神は宣言され,「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ…わたしは彼らをかばい,彼らをふやし,わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く」(エゼキエル37:26)と約束されている.神御自身が,他との接触を断ち切って,イスラエルの専属になるというのである.しかも,その初めに当って,神の側がまずイスラエルを選び,神の側がまず十字架の贖いを提供し,というように,契約の手は神の側から伸べられている.忠誠を誓っているのは,われわれより,主御自身が先である(マタイ28:20,ヨハネ6:37,ローマ5:8,Ⅰヨハネ4:10).→聖,聖化,きよめ,献身.(藤本 満)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社