《5分で分かる》ドルト信仰規準とは?

ドルト信仰規準とは?

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ドルト信仰規準…

[ラテン語]Canones Synodi Dordracende,[英語]Canons of the Synods of Dort.アルミニウス主義論争の決着をつけるためにオランダのドルト(ドルドレヒト)で開催された会議(1618—19年)によって制定された改革派信条の一つ.<復> 神の主権と人間の責任との関係は,教会史上古くて新しい問題である.カルヴァン主義とアルミニウス主義の間の論争もまたこの問題が中心であった.これは本質的には純粋に神学的な論争であったが,それにとどまらず,ついには政治的な問題ともからんでオランダ全体を巻き込む大論争に発展した.さらにこれはフランス,スイス,ドイツ,イギリス,スコットランドの改革派教会にとっても重大な関心事となった.<復> アルミニウス主義の元祖はヤーコービュス・アルミニウス(1560—1609年)である.彼の両親並びに親族はオランダ独立戦争で死亡したので,彼は友人たちの援助を得てライデン大学に学び,後にアムステルダムの商人ギルドの応援を得てジュネーブのベーズ(ベザ)の下で学んだ.1588年アムステルダムの牧師として活躍を始め,1603年にはライデン大学の神学教授に迎えられた.最初彼は厳格なカルヴァン主義者であったが,1589年に指名されてカルヴァン主義の予定説を研究するに及んで,無条件の予定の教理を疑うようになった.そこで彼はこの問題に決着をつけるために政府に教会会議開催を要請したが,実現に至る前に49歳の若さでこの世を去った.<復> アルミニウスの後を継いだのは,彼の後にライデン大学神学教授となったシモン・エピスコピウス(1583—1643年)である.エピスコピウスを取り巻く一団は政治的には州権支持派であったが,当時の国民並びに教職の大半はカルヴァン主義者であり,連邦制支持者が多かった.アルミニウス主義者ヤン・ウーテンボーハルトは1610年46名から成る同調者とともに,レモンストランティア(抗議書)と呼ばれる5箇条の信仰声明書を作成し,オランダ州と西フリースランド州の代表者に提出した.この抗議書からアルミニウス主義者はレモンストラント派とも呼ばれる.この後,アルミニウス主義者とカルヴァン主義者の間で何度か会議が開かれ論争がなされたが,ついにお互いに受け入れることはできなかった.1618年7月,後者を代表するモーリツがクーデターによって州権派を倒し優位に立ったのを機に,同年11月13日にドルト会議が政府側によって招集されて翌年の5月9日まで開催され,アルミニウス主義の問題が論じられた.オランダの代表のほかに政府の要請に答えてイギリス,プファルツ,ヘッセン,ブレーメン及びスイスからも代表者が参加した.ただし議員の過半数はオランダ人であった.<復> 会議は154の会期に分れ,そのほかにオランダの代表者たちが24の会期を追加した.費用は国家側が支出した.第2会期で改革派教会のヤン(ヨーハネス)・ボーヘルマン牧師が議長に選ばれた.オランダ代表も,みな正統派カルヴァン主義者であった.エピスコピウスとその同調者合せて13人は,ただ自己のアルミニウス主義の立場を弁護することしか許されず,その上,無条件の服従を求められて激しく抗議した.<復> ドルト会議を通して正統派カルヴァン主義者は,アルミニウス主義の主張する条件的選び,普遍的贖罪,可抗的恩恵,聖徒の堅忍の不確実性の教理のことごとくを満場一致で拒否し,全的堕落,無条件的選び,制限的贖罪,不可抗的恩恵,聖徒の堅忍の教理こそ正統的教理と宣言した.また,この会議でベルギー信条とハイデルベルク信仰問答書もみことばに合致する正統的教理として採用された.<復> ドルト信仰規準はオランダ,フランス,プファルツ,スイスでは正式に受け入れられた.今日では世界中の改革派教会の信仰規準の一つに数えられている.→改革派,カルヴァン主義,アルミニウス主義.<復>〔参考文献〕W・ウォーカー『宗教改革』(キリスト教史3)ヨルダン社,1983;Cross, F. L. / Livingstone, E. A.(eds.), The Oxford Dictionary of the Christian Church (2nd ed.), Oxford, 1974 ; Schaff, P., The Creeds of Christendom, Vol.1, Harper & Brothers, 1931.(泥谷逸郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社