《5分で分かる》ブリンガー,ヨーハン・ハインリヒとは?

ブリンガー,ヨーハン・ハインリヒとは?

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ブリンガー,ヨーハン・ハインリヒ…

[ドイツ語]Bullinger, Johann Heinrich.1504—75年.スイスの宗教改革者.チューリヒのツヴィングリの後継者として宗教改革において重要な役割を果した.<復> ブリンガーはチューリヒ近郊のブレムガルテンで司祭の子として生れた.12歳の時に,オランダ国境にほど近いドイツのエメリヒの共同生活兄弟団の学校に入学し,その後ケルン大学に進んだ.ケルン大学ではスコラ神学を学んだが,独自に教父や新約聖書の研究も行った.その間にルターの初期著作やメランヒトンの『神学総覧』に触れて,これらの人たちの教えのほうがローマ・カトリックよりもはるかに聖書と教父の教えに一致することを発見し,1522年頃にはルターに近い立場に立つに至った.1523年から1529年までカッペルの修道院付属学校で教え,同修道院は1526年にはミサを廃してプロテスタントに転換した.カッペル在任期間中にツヴィングリと出会い,親交を深め,1528年にはツヴィングリに同伴してベルン討論にも参与した.1529年に故郷ブレムガルテンの牧師となり,1531年にはカッペルで戦死したツヴィングリの後継者としてチューリヒの大聖堂教会牧師に就任し,1575年の死に至るまでその職にとどまった.<復> ブリンガーの著作は多数を数える.150篇ほどの著作を著し,1万2千通に及ぶ書簡を記した.これらの著作は,聖書注解,対ローマ・カトリック,アナバプテスト,ルター派等への弁証的諸文書,教理的著作,宗教改革史,説教,日記等を含む.中でもキリスト教教理に関する50篇の説教(Decades)は,ラテン語本文からドイツ語,オランダ語,フランス語,英語等に訳され,版を重ねて広範に読み継がれ,カルヴァンの『キリスト教綱要』に匹敵するほどの影響を全ヨーロッパに与えた.<復> 信条史の上でもブリンガーの貢献は顕著である.1536年には,ルター派とドイツ語圏スイス改革派諸教会との一致を目指して「第1スイス信条」(Confessio Helvetica Prior)を執筆した.この信条は,最後的にはルターに拒絶されたが,ドイツ語圏スイス改革派諸教会の統一には大いに役立った.さらに,1549年には,ブリンガーはカルヴァンとの間で聖餐に関する「チューリヒ一致信条」(Consensus Tigurinus)を結んだ.この信条は教会史的に見て極めて重要な意義を持つ.これによってドイツ語圏とフランス語圏を含む全スイス改革派諸教会の包括的一致が成立したからである.この点でブリンガーの果した役割は高く評価されねばならない.その後,1561年に,ブリンガーはプファルツのフリードリヒ3世の要請によって個人的なものとして一つの信条を作成したが,1566年にはこれが「第2スイス信条」(Confessio Helvetica Posterior)としてスイス改革派諸教会で公的に承認された.この信条は広い範囲で賛同を得て,ドイツ,オランダ,フランス,イングランド,スコットランド,ポーランド,ハンガリー,チェコ,デンマーク等の改革派諸教会で受容された.<復> 神学思想の面で言えば,ブリンガー神学の骨格を形成するものは契約概念であると断定できる.契約概念そのものは,すでにツヴィングリの中にも見出せる.ツヴィングリは契約概念を手がかりとして旧約と新約の内的一貫性を主張し,再洗礼派に対して幼児洗礼の弁証を行った.ブリンガーは,ツヴィングリのこの思想を継承しつつ,これをさらに発展させた.ブリンガーにおいては,契約概念は,彼の神学体系全体の構成原理として中核的位置を占めるに至った.言葉の本来の意味で,ブリンガーこそ「契約神学の父」と呼ぶことができる.ブリンガーの契約思想は,カルヴァンをはじめ,ウルジーヌスやオレヴィアーヌス等のハイデルベルクの神学者たち,改革派正統主義の契約神学者たち,さらにピューリタンの神学者たちに決定的な影響を与えたのである.<復>〔参考文献〕『宗教改革著作集6,ツヴィングリとその周辺Ⅱ』教文館,1986;Bromiley, G. W. (ed.), Zwingli and Bullinger, Westminster Press, 1953 ; Staedtke, J., Die Theologie des jungen Bullinger, Zwingli Verlag, 1962.(牧田吉和)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社