《5分で分かる》インコグニトとは?

インコグニトとは?

インコグニト…

[ラテン語]incognito.知られないの意.隠蔽,匿名,微行(者)と訳されることが多い.キリストの人性が神性をおおい隠すものという意味で,キェルケゴールのキリスト論,特に,『キリストの修練』(1850)で取り上げられている理念.神性は人性によって隠蔽されているゆえに,人間理性によって認識されない.従ってつまずきとなるものである.啓示はパラドックスにおける啓示であり,実存的信仰による認識によってのみ知り得る.<復> 今世紀,エーミール・ブルンナーが,この理念に注目し,彼の主著の一つである『仲保者』で取り上げている.彼は,キリストの受肉を,神を直接認識できるものとするあらゆる異教や神話論と決定的に正反対の理念であると言う.ことばが人となるという受肉において,神の栄光は全くおおい隠され,絶対的な謙卑を見る.その様態は,パウロが,「罪深い肉と同じような形で」(ローマ8:3)と語るほどの謙卑である.神的なものが,非神的なものによっておおい隠されるのである.キリストにおける啓示において,神の栄光は完全におおい隠され,絶対認識し得ないものとなる.神の啓示は,このように,隠蔽における啓示なのである.それは,人間にとってつまずき以外の何物でもない.そのつまずきは信仰によって除去される.従って,啓示は,受容か,つまずきかの決断の前に人を立たせる.神の啓示とはそのようなものである.神は決して御自分を直接に啓示されることはない.常に人間性において御自分を間接的に啓示される.従ってキリストの人性を啓示ということはできない.キリストの全生涯における啓示は,incognitoのそれであり,完全な隠蔽における啓示なのである.<復> キェルケゴールのincognitoの理念にも,ブルンナーのそれにも,ルター派神学における神人二性の関係と謙卑の状態との関係で考えられている,exinanitio(自己放棄)とoccultatio(自己隠蔽)の理念に通じるものがある.ルター派キリスト論において,人間イエスが,ロゴスと合体して,ロゴス・エンサルクス,すなわち,受肉の成立において,人性は,属性の交流によって,神的属性を持つものとなり,神と等しい威厳と権能とを,自己放棄,自己隠蔽によって隠されたものとすると考えられている.ここに,incognitoのキリストの理念を見ることができる.さらにさかのぼれば,ルターの隠された神(Deus absconditus)の理念に見られる啓示の隠蔽性にその源泉を見ることができよう.<復> 確かに,マタイ11:25,26にあるように,神は啓示と隠蔽において御自分を現される.しかし,その隠蔽は,啓示の人性において決定的におおい隠されているというのではなく,人間のむなしい誇り,罪に対して隠されているのであって,神が,御自分を,人間性,被造性において直接啓示することがおできにならないと考える必要はない.<復> 神は人間性をとりたもう受肉者キリストを啓示者として立てられるのである.キリスト御自身,「わたしが道であり…わたしを通してでなければ,だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハネ14:6)と語られ「わたしを見た者は,父を見たのです」(同14:9)と言われる.もちろん,その認識は信仰によるものであるが,そのことが,人性におけるキリスト,受肉者キリストにおける神の栄光,神の啓示をいささかも損なうものとは考えられない.「キリストの誕生と十字架におけるつまずきは,人性における神性の隠蔽にあるのではなく,むしろ,御自分を低くされる御子について,神によって啓示された使信の中にある」(ベルカウワー)のである.<復> incognito神学は,優れたモチーフを持つものであるとはいえ,被造性における神の啓示の現実性,客観性を認めようとしないところに問題があると言わねばならないし,その視点から,福音書のキリストを正しくとらえることは難しい.→隠された神と現された神.<復>〔参考文献〕Berkouwer, G. C., “Christ Incognito?,” The Person of Christ, Eerdmans, 1954 ; Brunner, E., Der Mittler, Mohr, 1927.(橋本龍三)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社