《5分で分かる》和協信条(一致信条)とは?

和協信条(一致信条)とは?

スポンサーリンク

和協信条(一致信条)…

宗教改革当時のルター派教会の主要信条のうちで最後に出されたもの.1577年に作成され,その後,アウグスブルク信仰告白50周年目に当る1580年に刊行されたルター派教理集大成『一致信条書』の中に他の諸文書とともに収められ,公のものとなった.その際「和協信条」(一致信条)の表題が付けられたために,今日でもその名で呼ばれている.<復> 中身は,「トルガウ信条書」と呼ばれるものの要約と「ベルゲン信条書」と言われる文書とを合せたもので,前者は「梗概」という見出しで,後者は「根本宣言」という題目の下に,それぞれこの信条の第1部・第2部を構成している.そして「ベルゲン信条書」自体がもともと「トルガウ信条書」を改訂したものなので,結局「和協信条」は,内容的に「トルガウ信条書」に基づくと言える.「トルガウ信条書」は,1576年5月にザクセン選帝侯アウグスト1世の指示によりトルガウに参集したルター派の神学者たちによって,それまでの約30年間に及ぶルター派内部の神学論争に決着をつけるべく準備された.ルター没後,福音主義陣営は「フィリップ派」及び「純正ルター派」と呼ばれる二つの党派の対立に巻き込まれた形で神学論争に明け暮れ,分裂の危機にさらされていた.「隠れカルヴァン派」とも揶揄(やゆ)された「フィリップ派」はメランヒトンを中心とするもので,妥協的・協調的な神学思想を特徴とし,神人協力説的に回心を説いたり,全的堕落の理解を緩めたり,聖晩餐の教理を改革派にも受け入れられるように表現したり,ある場合にはローマ・カトリック教会とプロテスタントの対立緩和のため両教派の中間的な信条並びに教規を案出して双方の同意を得ようとしたりした.このためルター本来の神学を固守するというマティーアス・フラーキウス・イリーリクスに指導された「純正ルター派」からは,ルターの精神を踏みにじるやからとして非難され終生の論敵と目された.しかるに1560年頃から福音主義教会の教義的また実際的一致に向けての気運が盛り上がり,メランヒトンの学徒であると同時にルターの忠実な信奉者でもあったアンドレーエ,ケムニツ,ゼルネッカー,ヒュトレーウスといった比較的若い世代の神学者たちが第3のグループとして起り,積極的に論争解決のために尽力した.選帝侯の命によりトルガウで開かれた神学者会議の中心となったのも彼らであり,彼らはそれまでの条項・和協書のたぐいを基礎に「トルガウ信条書」を作った.信条書はルター派諸地方に回覧され,各領邦の反応をもとに,さらに討議を重ねるための会合が1577年マグデブルク近郊のベルゲン修道院で持たれた.その結果「トルガウ信条書」の改訂版である「ベルゲン信条書」が出来上がり,同時にアンドレーエによって「トルガウ信条書」の要約が準備され承認を受けた.それから3年後,両方合せて「和協信条」の名のもとに公にされたのである.信条に寄せられた署名は,諸侯君主・都市代表者・神学者その他約8千名に達し,ルター派教会の一致をもたらすに足る賛同の表明と受け取られた.<復> 内容的には,それまでの神学論争の問題点を明示しながら,原罪・自由意志・義認・善きわざ・律法と福音・聖晩餐・キリストの位格・予知と選び・異端などの各項について,正統的ルター派の立場から説き明かすとともに,カトリック派・カルヴァン派・フィリップ派などの主張を批判している.この信条によって,ルター宗教改革の後継者は自分たちの歩むべき道を定め,ルター主義を分裂の危機から救った.しかし同時に「和協信条」は,宗教改革の意義は何よりもキリスト教教義の純化にあるという確信の産物でもあったがゆえに,信仰とは正しい教義に同意することであるといった,信仰概念の不幸な定式化を招いたとも言える.信仰とはキリストへの完全な信頼であるとする,ルターの極めてダイナミックで実存的な信仰概念が,特定の教義を真理と見なすことが信仰であるという理論的かつ固定的なものにすり替えられ,やがて宗教改革本来の精神とはある意味でかけ離れた「ルター派正統主義」を生み出していくその端緒とも,「和協信条」はなったのである.→ルーテル教会,メランヒトン派.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社