ニュー・スクール神学,オールド・スクール神学とは?
ニュー・スクール神学,オールド・スクール神学…
1830年代に引き起されたアメリカ合衆国長老教会の分裂を反映する二つの立場の神学を指す.<復> アメリカ大陸への最初期の植民者たちは,一般に改革派の信仰と伝統を携えてきた.フランスのユグノー,英国国教会を離脱したピューリタン,オランダ改革派教会の移民,長老派のスコットランド人及びスコットランド系アイルランド人の移民は,いずれも改革派の神学と長老派の教会政治への熱心に燃えて,新大陸での教会形成と新世界におけるアメリカ精神の形成に当った.カルヴァン派の神学を堅持しながら,会衆派の政治形態を採る組合派,バプテスト派なども成立したが,植民時代とそれに続く時代にわたり,最も大きな影響力を持ったのは長老派であった.<復> アメリカの長老派教会は信仰規準としてウェストミンスター信仰告白および大・小教理問答書を採用していたが,特に信仰告白への忠実を巡って,立場の違いがはっきりと認められるようになった.18世紀末から19世紀初めにかけての第2次信仰覚醒運動(大覚醒)において,長老派の中には,福音への応答に当って個人の本来的な能力が効力を持つとする教師が増えるに及んだ.全人類がアダムにおいて罪を犯し,アダムとともに堕落したことを主張せず,かえって人間の内的な選択の自由を主張するニュー・スクールの立場は,1822年にイェール神学校教授に就任したN・W・テイラーのニューヘブン神学に大いに影響されていた.アダムの罪の転嫁を否定し,再生していない人間の意志の自律を強調するテイラーの立場は,厳格なカルヴァン主義から離れ,アルミニウス主義への橋渡しを図るものであった.信仰覚醒運動の流れの中で,新開拓地での伝道の実を挙げるため,長老教会と組合教会が1801年以降協同の計画を実施したことも,神学的立場の相違をより鮮明にすることへと連なった.長老制の教会政治が厳格さを欠く時,戒規の適正な執行が危ぶまれることは事実である.<復> ニュー・スクール神学は,一言で言えば,個人の本来的選択能力を救いについて認めようとする″修正″カルヴァン主義である.このような立場に対し,″厳正″カルヴァン主義,すなわち徹底したカルヴァン主義を主張する立場がオールド・スクール神学である.首尾一貫したカルヴァン主義は,アウグスティーヌス,カルヴァン,ウェストミンスター信仰告白によって明白にされた改革派教理の純正な保持を目指し,信条主義への忠実な態度を堅持した.当時のアメリカでカルヴァン主義の正統的な立場を鮮明にした旗手は,プリンストン神学校のA・アレグザーンダ(アレキサンダー)及びC・ホッジであった.両者はテイラーの主唱するニュー・スクール神学に対し,1830—31年の『プリンストン評論』に七つの論評を寄稿し,特にアダムの罪の転嫁,キリストの代理贖罪,聖霊の再生の働きという改革派教理を強調した.オールド・スクールに属する人々は,信仰覚醒運動に異を唱えたのではなかった.むしろその必要を正当に認めた上で,しばしば見られる過度の興奮状態を批判し,教会の信条に堅く立ってこの運動を推進すべきことを主張した.その際,特に強調されたのは,神の主権と人間の無能力の2点であった.教会内での信仰の育成に力点を置くことが,オールド・スクールの方針でもあった.<復> 1837年の全国総議会で,オールド・スクールは過半数を制してニュー・スクールの4地方議会を追放し,アメリカ合衆国長老教会は事実上2派に分裂した.ニュー・スクールの牧師・信徒約2百名が同年8月ニューヨーク州オーバン市に集まって公にした自分たちの立場表明文書を,オーバン宣言と呼ぶ.これは,16項目にわたるオールド・スクール側からの非難を不当とするもので,内容的にはニューヘブン神学とウェストミンスター信仰告白の妥協の色合いを持つものであった.1840年以後,ニュー・スクールの立場は保守的なものに転じ,1869年にはオールド・スクール側の認めるところとなり,両派の再合同が実現した.→大覚醒,オーバン宣言.(石丸 新)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社