《5分で分かる》テュービンゲン学派とは?

テュービンゲン学派とは?

テュービンゲン学派…

ヘーゲル哲学的な立場から新約聖書批評及びキリスト教本質論を試みた19世紀のプロテスタント神学者のグループを言う.1826—60年テュービンゲン大学教授を務めたF・C・バウアがその指導者で,彼は最初シュライアマハーの弟子であったが,のちヘーゲルの歴史哲学の影響下に,新約聖書並びに原始キリスト教の成立を弁証法的論理をもって解明しようとした.彼は新約聖書が相互に異質的な神学思想を内包していることに着目し,純粋に歴史的な立場からそれらの内的関連を探りつつ聖書と初期キリスト教の全体的理解に至ろうとした.その際彼の用いた論理がヘーゲル的弁証法であって,それによれば,新約聖書の基調をなしているのはペテロを筆頭とするユダヤ人教会とパウロを中心としたヘレニズム的異邦人教会との間の思想的葛藤であり,新約聖書の編纂は初めにあったペテロ神学—信仰義認とモーセ律法の遵守の両方を主張するユダヤ的キリスト教—と後から登場したパウロ神学—信仰義認のみを説くヘレニズム的キリスト教—との相克を一つの統合へと導こうとする努力の反映なのである.バウアは,新約各文書の信憑性は,それぞれの文書がどの程度までこの基本的対立の「傾向」を表しているかを見ることにより決定されるとした.例えばペテロ的またはパウロ的調子の非常に強いものは初期の,すなわち真正の文書と見なされ,何らかの妥協的色合いが見られるものは使徒の名を冠していても後の時代に属すると判断される.その結果,真正の使徒的文書とはローマ・ガラテヤ・コリントのみで,残りは福音書も含めて後代のものとされた.マルコの福音書は,四福音書の中で最古とは認められたが,成立年代は2世紀のユスティノス以後とされ,ヨハネの福音書なども初期カトリシズムのもとで2世紀半ばに成立したものと見なされた.バウアはまた原始キリスト教史をも弁証法的にとらえ,ユダヤ教的聖職位階制の導入を目指したペテロ派教会と会衆制を望んだパウロ派教会との〈定立・反定立〉的対立の中からその〈総合〉としてのカトリシズムが2—3世紀に現れたとした.<復> テュービンゲン学派の活動は1835—36年に出たD・F・シュトラウスの『イエス伝』(2巻)をもって始まると言ってよい.バウアの弟子であるシュトラウスはこの書において,旧い超自然主義とたもとを分かち,完全に自然主義的な聖書理解に基づいて,福音書の超自然的要素の歴史性を否定し,聖書の語るイエスの生涯を神話として説いた.1842年から57年にかけてE・ツェラーを中心としたグループによる「テュービンゲン神学年報」(Die Tu¨binger theologische Jahrbu¨cher)が出され,学派の研究発表の場となった.これはその後A・ヒルゲンフェルトの手に引き継がれ1914年まで「学術的神学時報」(Zeitschrift fu¨r wissenschaftliche Theologie)として刊行された.<復> 1840年代が終る頃には学派は厳しい批判にさらされ,50年代以降その名声と影響力は急速に衰えた.初期のメンバーの一人であったリッチュルは自身の学派を形成するに至り,その他少なからぬメンバーが離れ去った.バウア自身も大学内外で孤立の憂き目に遭ったが,晩年まで自説の弁護にこれ努め,完全に自然主義的な立場に立った教会史などを著した.新約研究や原始教会史への,ある意味で余りにも単純なヘーゲル哲学的アプローチが資料や歴史の現実にそぐわないと判断されたため学派は結局短命に終りはした.けれども,原始教会内の弁証法的葛藤への注目やほとんどのパウロ書簡の信憑性の否定あるいは徹底した反超自然主義的姿勢などにおいて,神的要素を抜きにした純粋な歴史批評的聖書研究へのテュービンゲン学派の貢献は,それなりに大であったと言い得よう.→聖書批評学,自由主義神学.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社