《5分で分かる》光とは?

光とは?

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光…

聖書で最初に使用されている「光」を指す語彙は[ヘブル語]オールである(創世1:3).もちろん訳語としては「光」となっているが,単に暗さを明るくすると考えられる「物理的微粒子」または「光線」より以外(または以前)の「もの」を示していると考えられる.もっと原理的であり,しかも同時に,物理的な性格または要素も内蔵していて,「秩序」と理解すべき存在概念であろう.太陽を初め,月,星などの創造以前であったならば,そのような総括的秩序としての「光」と理解せざるを得ない.聖書記述(創世1:3‐5)によれば,そのような「光」としての秩序は,完全に神の主権によるものであることを明示している.また,性格的にそれは「光」と「やみ」に分けられることも提示された.それ以後,聖書全体の「光」の概念は,そのような「光」の原理的理解を基底にして,常に二面性をもって私たちに啓示されている.すなわち,物理物質的な面と,倫理教訓的な面である.<復> 1.物理物質的「光」の概念.<復> 旧約聖書においては,天地創造の初期の段階において(創世1:14‐19),「光る物」として太陽,月,星などが創造されたことが提示されている.光る物質として単に天体的なもの(出エジプト10:23,13:21,22)だけでなく,人が作り出す具体的で物質的な「光」が,ともしびなどの表現で用いられている(出エジプト25:6,民数4:9等).<復> 2.倫理教訓的「光」の概念.<復> よく知られている「あなたのみことばは,私の足のともしび,私の道の光です」(詩篇119:105)は,好例である.ある場合には象徴的なニュアンスを持っている(Ⅱサムエル21:17).神の祝福を示すイザヤ9:2(ヘブル語聖書では9:1)に使用されている場合などは,新約における福音についてのメシヤ的預言とも考えられる概念であり,やみの世界,この世の悪と対照的な関係を提示している.新約聖書の中で,イエス御自身が「わたしは,世の光です」(ヨハネ8:12,9:5)と言明されている場合には,預言の成就としてのイエス・キリストの「光」としての存在をよく示している([ギリシャ語]フォースは,イザヤ9:2のギリシヤ語訳〔70人訳〕で用いられている).確かに,悪または悪魔的支配との対照(または対決)という関係で,暗黒を悪とし,光を善とする倫理または道徳における二元論的哲学概念にも相通じるような面もあるかもしれない.しかし,それだけでペルシヤやギリシヤの宗教哲学的起源を持つと断定することはできない.ヨハネ神学における福音理解には,光とやみの対比理念は存在していて,初代教会は旧約の概念として(またはユダヤ教の思想として)「光」を「やみ」との対照でとらえたと考えられる(死海写本においても,「光」と「やみ」は,善と悪との類比においてとらえられている).むしろ,光は神の臨在そのものと直接関係のあるもので(Ⅰテモテ6:16),すばらしく喜ばしいものであり,「神は光である」(Ⅰヨハネ1:5)とさえ表現されている.さらに,光には宣教概念のあることを忘れてはならない.神の御子,メシヤなるキリスト御自身が「光」としての福音であるとともに,その恵みにあずかったクリスチャンは,キリストの証人として,自分をささげて「光」として生きることが求められている.イエスはバプテスマのヨハネを指して,「彼は燃えて輝くともしびであり,あなたがたはしばらくの間,その光の中で楽しむことを願ったのです」(ヨハネ5:35)と明言し評価されたが,その同じイエスが,私たちに,「あなたがたは,世界の光です」(マタイ5:14)と言っておられるのである.→やみ,創造の教理,善,悪,あかし(証言).(服部嘉明)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社