メランヒトン派とは?
メランヒトン派…
1546年にルターが没した後,ドイツのルター派教会は,ルターの教えを純粋かつ厳格に守ろうとする一派と,ローマ・カトリック教会あるいはカルヴァン主義などとの調停を図ろうとする派との鋭い対立を生んだ.後者はメランヒトンを筆頭とした彼に追随する神学者たちであって,そのため「メランヒトン派」あるいは「フィリップ派」と呼ばれた.<復> もともと人文主義的傾向のあるメランヒトンは,神学上の諸問題について,ルターとは微妙に異なる見解を時とともに持つに至った.例えば自由意志の問題に関連して,救いという事柄においては人間意志は何の働きもなさず全くの「奴隷意志」であるとしたルターに対し,メランヒトンは,信仰はみことばと聖霊と人間意志との共同の働きによるとする神人協力説を唱えるようになった.また善きわざについても,それは救いの不可欠なしるしでありその意味で救いに必要なものであると,一時期説いたことがある.聖餐式に関してもメランヒトンは,ルターのようにキリストの体とパンとを直結させてパンの〈中に〉キリストの体があるとするのではなく,パンと〈共に〉体が与えられるとして,物質的・身体的にでなく専ら霊的に礼典を理解しようとした.その意味で彼の聖餐論はカルヴァンに極めて近いものであったが,メランヒトン自身は公にそれと認めることを拒んだため,彼と彼の弟子たちは「隠れカルヴァン主義」者と非難された.実際メランヒトンの神学は,聖餐に関する条項から「真に現在する」という文言を削除した『アウグスブルク信仰告白修正版』を彼が出したことからも窺えるように,ルター派に属しながらもカルヴァン主義に傾きがちであった.しかしそれに対してルター主義陣営がはっきりと警戒心を抱き,彼らを「メランヒトン派」として区別するようになるのは,1548年のいわゆる「ライプチヒ仮信条協定」を巡ってである.皇帝カール5世はドイツ国内の教会問題に対して独自の決着をつけようとして,ローマ教会側に有利な内容の「アウグスブルク仮信条協定」なるものを1548年のアウグスブルク国会で国法としその実施を強行したが,ヴィッテンベルクを中心に強い反対があったため,ザクセン新選帝侯モーリツは,改めてメランヒトンらに上記信条協定の修正版とも言うべき「ライプチヒ仮信条協定」をまとめさせた.その内容は,信仰義認こそうたってあるものの,その他の多くの点ではローマ・カトリック教会の慣習や教権の復活を容認しようとするものであった.それらは信仰にとっては非本質的などちらでもよいこと(アディアフォラ)だからというのがメランヒトンらの言い分であったが,そこまで軟弱な譲歩をしたということで,純正ルター派のフラーキウス・イリーリクスやアムスドルフらに激しく非難された.それを受けた形で,逆にメランヒトンに従うグループが「メランヒトン派」として自覚的に形成された.メンバーはマーヨル,クレル,シュトリーゲル,カメラーリウスといった,おもにヴィッテンベルクとライプチヒの神学者である.次のザクセン選帝侯アウグスト1世は,初めメランヒトン派を支持し純正ルター派を圧迫したが,1574年に妥協的なメランヒトン派によって自領があまりにカルヴァン的になっていることに気付いてからは,彼らを国賊と宣言し,その指導者たちを追放したり投獄したりした.メランヒトン派はその後一時的に勢力を挽回したこともあったが,結局抑えられ,1577年の『和協信条』においてその主張は正式に退けられた.→神人協力説,メランヒトン,和協信条(一致信条).(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社