スパージョン,チャールズ・ハッドンとは?
スパージョン,チャールズ・ハッドン…
Spurgeon, Charles Haddon.1834—92年.1834年6月19日英国エセックス州ケルヴェドン生れ.独立派の牧師であった祖父から多大の影響を受けた.15歳でバプテスト派の信者の経営する学校の助手を務めたのが,バプテスト派との最初の接触である.<復> 1850年12月15日にクロチェスターのプリミティブ・メソジスト教会で,イザヤ45:22に基づく説教を通して救いを受けた話は有名である.<復> 1851年5月3日にバプテスマを受け,ケンブリッジに移転して,かつてロバート・ホールが牧会していたセント・アンドルーズ・ストリートのバプテスト教会に転籍し,学校の助教師を続けながら「信徒伝道協会」の活動に参加した.事情により正規の神学教育課程を受けることはなかったが,組織的な独学とピューリタンの著作への深い傾倒は聖書,神学に関する十分な知識を得させた.<復> 1852年にウォータービーチの教会に牧師として招かれたのが,牧会の最初である.そこでの働きが主に大きく用いられ,翌1853年には,ロンドンのサザークにある由緒あるニュー・パーク・ストリート・バプテスト教会(かつてベンジャミン・キーチ,ジョン・ギル,ジョン・リッポンが牧師を務めた)が彼を牧師として招くことを決めた.1854年4月にこの教会の牧師となり,当初80人ほどの出席者であったが,間もなく1500の席では足りなくなり,6000人収容のメトロポリタン・タバナクルを建設した.<復> スパージョンは説教者として特別な賜物を受け,聖書的,平易で直接的であり,「説教界のプリンス」と称されるほどであった.その説教は毎週印刷され,60冊以上の説教集が刊行された.また聖書に関する優れた著作も多く,特にTreasury of David(ダビデの宝庫)と題された詩篇の講解は,学ぶ時間の少ない牧師のために著されたもので,ピューリタンの著作への造詣の深さを示している.その他,神学生,牧師に対する多くの著作,例えばLectures to My Students, Commenting and Commentariesなど今日でも有用な書が多い.<復> 彼はまた困窮者,保護を必要としている者たちに温かい手を差し伸べ,ストックウェルの養護施設の開設(1868年)や,牧師たちに図書を無償で提供する活動,牧師学校の開設などを行った.<復> 神学的には,スパージョンはカルヴァン主義バプテストであることを鮮明にし,1689年版の第2ロンドンバプテスト信仰告白の立場を堅持し,アルミニウス主義,キリスト教自由主義などに対して厳しく対決した.このことは,彼が指導的役割を果していた英国のバプテスト同盟における1887年以降の「ダウングレイド論争」と呼ばれる論争で明らかである.彼は信仰規準のあいまいさが自由主義との妥協を招いたとして,聖書の霊感,キリストの神性を否定する者たちと闘おうとしたが,結果的にはバプテスト同盟から離脱するなど,多くの賛成者を得ることはできなかった.しかし,そこで取り上げられた内容は,現在でも聖書信仰に立つ者が考慮すべき重要な提題となっている.この論争が彼の心身に多くの影響を与えたと考えられているように,スパージョンは病気がちになり,1892年1月31日に保養先の南フランスのメントンで召天した.(鈴木 昌)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社