《3分で分かる》シュマルカルデン条項とは?

シュマルカルデン条項とは?

シュマルカルデン条項…

1536年にザクセン選帝侯の命によりルター自らによって書かれた信仰箇条.神聖ローマ帝国皇帝カール5世は,アウグスブルク国会で果し得なかった宗教改革問題の決着を図るため公会議開催をローマ教皇に要望し,教皇パウルス3世は,1537年5月イタリアのマントバで第19回目の公会議を開くとの教書を発した.(実際はこの会議は種々の理由で延期を重ね,ようやく1545年にトリエントでローマ・カトリック教会のみにより開かれた).マントバ会議の招集状を受けたザクセン選帝侯ヨーハン・フリードリヒ1世は,ルターらに,会議で主張されるべき福音主義的信仰を明らかにするための信仰箇条作成を命じた.ルターは自ら筆を執り,病気のため後半は口述筆記に頼りながらも,3か月ほどで完成させ,1537年1月選帝侯に提出した.その年の2月にシュマルカルデンで,公会議出席の是非を協議するためいわゆるシュマルカルデン同盟に属する諸侯による会議が持たれ,ヨーハン・フリードリヒはそこで正式の承認を得るべく,ルターの信仰箇条を携えて行った.結局討議の末,公会議の目的が最初からルター派駆逐にあると判断されたので,出席を見合せることが決定されたのであるが,それ以来ルターの文書は「シュマルカルデン条項」と呼ばれて,ルーテル教会の主要な信条の一つに数えられている.実際は,ルターが病のためシュマルカルデン会議に列席できなかったのと南ドイツ都市の反対などにより,これは正式に採択されず,非公式な形で大方の賛同を得たにすぎなかった.会議ではむしろ「アウグスブルク信仰告白」とその「弁証」とが再確認され,またアウグスブルク信仰告白への追加としてメランヒトンが書いた「教皇の権力と首位権について」が採択されたのである.ルターの信仰箇条はついに公式文書となることなく,1538年春再編集された後,出版されたにとどまる.<復> そういった事情にもかかわらず,シュマルカルデン条項がその後重要な告白文書と見なされるようになったのは,アウグスブルク信仰告白などと違ってルター自身の神学・信条が色濃く打ち出され,いわば生粋のルター派教会の立場が,ローマ教会への最後の決別通告といった趣で,いささかの妥協や遠慮も交えず単刀直入に説かれているからである.その内容は,カトリックと共通の基本的信仰箇条についての第1部,そして特に福音的な箇条をミサ・煉獄・贖宥状・教皇権などの批判とともに論じる第2部,及び宗教改革の諸理念を具体的に説いた第3部に分けられる.特に重要なのは第2部であり,「たとえ天地が滅び去ったとしても少しも譲歩したり妥協したりすることはできない」信仰義認の教理を盾として「あらゆる種類の偶像崇拝の害虫や毒虫を生み出した」「竜のしっぽ」であるミサや「悪魔以外の何物でもない」教皇に対する仮借のない批判がなされる.論調鋭く非協調的なシュマルカルデン条項は,それだけにルター的信仰の,またローマ教会拒否の最も明瞭な表現であり,その独自の意義は極めて高いと言えよう.後にメランヒトンの小論「教皇の権力と首位権について」をその付録として,『一致信条書』に収められた.→ルーテル教会,アウグスブルク信仰告白,プロテスタント宗教改革,ルター.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社