《3分で分かる》復活節とは?

復活節とは?

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復活節…

イースター(復活祭)とも言い,主イエス・キリストの復活を記念するために設けられた.マルコ14:1,使徒12:4に見られる過越の祭([ギリシャ語]pascha)に由来している(フランス語では復活祭をpa^quesと呼ぶ).<復> 英語のEasterはチュートン族の春の女神Eostreに由来しているとされるが確実な証拠はない.彼らは毎年4月に女神Eostreにいけにえをささげていたが,主イエス・キリストの復活を祝うのにこの異教の習慣が取り入れられたとも推測できる.<復> しかしながら,主イエス・キリストの復活を年ごとに祝う習慣は使徒時代の初期から行われていた.Ⅰコリント5:7,8はイースターの模倣であるという説があるがこれは極めて蓋然性に乏しい(The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, Vol.2, p.18).<復> 復活日の決定については「復活日論争」として歴史的に論争されてきた.初代教会ではユダヤ教の過越に倣ってニサンの月の14日に復活を祝う教会と,その次の日曜日を復活日と定める教会との相違が生じてきた.すなわち,小アジヤの教会では,ユダヤの太陰暦のニサンの月(太陽暦の3—4月)の14日を曜日にかかわりなく固定して復活日として守った(14日遵守派).それに対して,アレキサンドリアの太陽暦の影響を受けたローマではニサンの月の14日に続く日曜日を復活日と決めた.従って,年ごとに復活日が変ったのである(移動的復活日制定派).<復> 復活日論争についての最も初期の記録は,150年頃のスミルナの監督ポリュカルポスとローマの監督アニケトゥスとの会談である.ところが,この会談において解決を見ることなく,その後170年にラオデキヤで論争が生じ,さらに190年にエペソの主教ポリュクラテースとローマの教皇ヴィクトル1世との間に大論争が起った.その結果ヴィクトル1世は,14日遵守派のエペソを初めとする小アジヤの諸教会に対して破門の脅迫をもって威嚇した(エウセビオス『教会史』5:23‐25).結局エイレーナイオスの仲介によって,この問題は信仰上・神学上の異論ではなく典礼上の相違であることが指摘され,分裂は避けられた.しかし,小アジヤの大多数の教会が完全にローマ教会に同調するのは5世紀頃である.<復> 一方,ニカイア総会議(325年)においては,アレキサンドリアの移動的復活日制定法が用いられるようになった.暦法上の相違のためローマとアレキサンドリアとの間には多少の相違があったが,ローマは徐々により進歩したアレキサンドリアの暦法を受け入れるようになった.<復> 近代に入って,教皇グレゴリウス13世の制定したグレゴリウス暦(1582年)のゆえに従来のユリウス暦を使用していたプロテスタント諸国,東方正教会の間に相違があったが漸次グレゴリウス暦に統一されてきた.<復> 今日行われている復活日制定法は「春分(3月21日)後の最初の満月の後に来る第1日曜日」を復活日と定めている.→教会暦.(丹羽 喬)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社