《3分で分かる》ルター,マルティーンとは?

ルター,マルティーンとは?

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ルター,マルティーン…

Luther, Martin.1483—1546年.宗教改革者ルターは鉱山町アイスレーベンに生れ,マクデブルクとアイゼナハで教育を受けた.1501年エルフルト大学に入学.1505年5月父親の希望で同大学法学部に進むが,同年7月突然エルフルトのアウグスティヌス会修道院に入る.一般には旅行途上のある村で落雷に遭った際に思わず立てた誓願に従ったためと言われている.1507年司祭に任ぜられ,1511年ヴィッテンベルクの修道院に移り,翌年同大学で神学博士号を取得し,30歳にも満たない若さで同大学教授となる.聖書学の講座を担当し,詩篇・ローマ人への手紙・ガラテヤ人への手紙・ヘブル人への手紙を講ずる.1513か14年頃詩篇講義の途中で,宗教改革者ルターの誕生となったいわゆる〈塔の体験〉—神の義は罪人をさばく義ではなく,信仰において罪人を義とする義であるという福音主義的神の義の発見—を修道院の塔にある自室で持つ.1517年10月31日贖宥状販売に反対してその神学的前提を問うた「95箇条の提題」を城教会門扉に掲げたところ,これが思いがけぬ反響を呼び,宗教改革の発端となる.1518年4月ドミニコ会士とのハイデルベルク討論でカトリック的「栄光の神学」に対して「十字架の神学」を主張する.同年10月アウグスブルクにおける枢機卿カイェターヌスによる審問,また翌年のヨーハン・マイアー・フォン・エックとのライプチヒ討論を経て,1520年6月破門警告の教勅を受け,翌年3月教皇により破門される.同年4月皇帝カール5世は,ヴォルムスの帝国議会にルターを召喚し自説の撤回を求めたが,ルターは大胆不敵な態度でこれを拒否し,帝国追放の処分を受ける.有名な「我ここに立つ」の言葉はその時のものとされる.5月から翌年の3月までヴァルトブルク城にかくまわれ,城内で新約聖書のドイツ語訳を完成させる.その後ヴィッテンベルクに戻り,カールシュタットら宗教改革過激派による騒乱を静め,説教と聖餐を中心とした新しい礼拝理念に基づく教会形成に取り組む.1525年春農民戦争が勃発,ルターは最後には反乱農民弾圧の側に立ったため,農民層の支持を失う.以後民衆的な宗教改革の可能性に見切りをつけ,領邦君主などによるいわば上からの改革に踏み切り,領邦教会制の確立を目指す.同年6月元修道女のカタリーナ・フォン・ボーラと結婚.同年10月エラスムスの『自由意志論』への反論として後年自らの最良の書と見なした『奴隷意志論』を著す.その後,領内教会の巡察,『大・小教理問答書』の執筆,1529年マールブルクにおけるツヴィングリとの聖餐論争,1530年「アウグスブルク信仰告白」の成立への準備,1534年聖書全訳の出版,1536年「シュマルカルデン条項」の執筆など,晩年に至るまで執筆活動や論争また教会の実際的諸問題の処理にかかわる.1546年くしくも生れ故郷のアイスレーベンで心臓発作のため客死.<復>〔参考文献〕成瀬治『ルターと宗教改革』誠文堂新光社,1980.(角川周治郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社