東西教会の分裂とは?
東西教会の分裂…
ローマ帝国全域に広がったキリスト教は,東方と西方で地域的・文化的背景の違いから徐々に独自の傾向を示していったが,帝国の分裂を経てその差異は大きくなった.それは神学,信仰・教会生活上の慣習,教会と国家の関係に現れた.神学に関しては,東方は信仰の正統性に厳正に取り組み,哲学的・思弁的であり,神秘性・形而上性に富んでいた.それに対し西方は信仰の清さ,権威に敏感で,実践的・合理的・倫理的傾向を示した.復活祭の日取り,言語・典礼を含む宣教の方針(東方は宣教地の言語の使用を認めるが,西方はラテン語を使用),イコン崇敬問題で立場を異にしたが,神学上の決定的な相違は聖霊発出問題において現れた.東方教会は,聖霊は父から発出するというニカイア・コンスタンティノポリス信条を固持し,西方教会が「及び子から(フィリオクェ)」の立場をとったことを認めなかった.その他聖職者のひげの問題(東方は生やすべきとし,西方は顔は剃ってよいとした),聖職者の妻帯問題(東方は司祭・輔祭には妻帯を認めたが,西方は否定),聖餐用のパン(東方は種入り,西方は種なし),クリスマスの日取りなど,慣習の面でも立場が異なった.また,東方の教会がローマ皇帝の強い影響下に置かれたのに対し,西方は帝国の弱体化を利用して教皇を中心に皇帝・国家から自由になろうとした.ローマ教会は教皇グレゴリウス1世のもとに権威を拡大し,8世紀以降フランク王国に接近して東ローマ皇帝の監督から離脱していった.さらにローマの総主教(後の教皇)はペテロの後継者としての優位性を主張して東方の反発を買っていた.こうした違いは感情的な対立ともなり,9世紀の教皇ニコラウス1世とコンスタンティノポリス総主教フォーティオスの論争を経て1054年の分裂につながった.前年,聖餐用のパンについて総主教ミカエル・ケルラリオスが西方の方式を非難していたが,ノルマン人の南イタリア進攻を契機に1054年ローマ教皇レオ9世は軍事同盟を結ぶべく特使フンベルトゥスをコンスタンティノポリスに派遣した.しかし,東西教会の慣行,フィリオクェを巡って論争となり,フンベルトゥスはケルラリオスに破門を宣告した(教皇はすでに死去していた).ケルラリオスも主教会議を召集し,フンベルトゥスを破門に処した.そしてこの事件が東西教会の決定的分裂となったのである.<復> 1438年からのフェラーラ・フィレンツェ会議で東西の一致の妥協がはかられたが,ロシア教会を含む東方教会内部の反対,東ローマ帝国の滅亡(1453年)により合同は実らず,20世紀半ばまで断絶は続いた.→ギリシヤ正教,カトリック・カトリック教・カトリック教会,イコン.(安村仁志)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社