偽善とは?
偽善…
[ギリシャ語]ヒュポクリシス,偽善者は[ギリシャ語]ヒュポクリテース.偽善は,イエス・キリストが非常に嫌い,強く非難しておられる罪である.新約聖書において,偽善ほど厳しく非難されている罪は少ない.この語は本来,装うこと,役者のように演ずることを意味する.福音書の多くの箇所において,イエス・キリストは,律法学者,パリサイ人の偽善を厳しく糾弾しておられる.偽善は見せかけの善行,見せかけの敬虔であり,その実のない生き方である.偽善者は人にほめられたくて会堂や通りで施しをし(マタイ6:2),人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈り,ことば数をいたずらに多くする(同6:5,7).断食をする時はわざとやつれた顔つきをする(同6:16).神に仕えているように見せかけて,その実は自分がほめられることを求めているのである.伝道さえも偽善の行為となり得る.「忌わしいものだ.偽善の律法学者,パリサイ人たち.改宗者をひとりつくるのに,海と陸とを飛び回り,改宗者ができると,その人を自分よりも倍も悪いゲヘナの子にするからです」(マタイ23:15).それは伝道の名を借りた自己拡張であり,神の名を借りた売名行為である.<復> 偽善の行為はそのつど,人からの報いを受ける.人からほめられ,自分の信奉者を得る.従って,神からの報いを得ることができない.そればかりか,偽善は神に厳しく罰せられる(マタイ24:51).偽善は見せかけの善行や,敬虔の下に隠されている心の醜い動機であり,心の誇り,高慢,汚れである.謙遜を装いながら心は高慢に満ちているのである.<復> 多くの罪の中で,偽善は最も簡単に犯しやすい罪である.クリスチャンであっても例外ではない.キリストの使徒たちのリーダー格であったペテロでさえ,割礼派のユダヤ人を恐れて偽善の罪を犯し,バルナバまでも偽善の行為に引きずり込み,パウロから厳しく抗議されている(ガラテヤ2:11‐14).聖霊の助けなしに偽善の罪に勝利できる人は誰もいない.聖霊の光に照らされて,自分の中にある偽善の罪に気付かせていただき,それを捨てること(Ⅰペテロ2:1)が大切である.また,自分の弱さを知って聖霊に信頼することである.偽善に引きずり込まれないように,偽善者との交わりを避けることも大切である(詩篇26:4).→罪・罪論,善.(千田次郎)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社