《5分でわかる》マルコとは?

マルコとは?

マルコとは…

マルコはイエス・キリストの直接の弟子ではなかったが、パウロペテロ、バルナバの伝道旅行を助け、初代教会の確立に大きな役割を果たした。新約聖書の「マルコの福音書」も彼の手によっている。

マルコの家族

マルコという名前はギリシヤ語名で、彼にはヨハネというヘブル語名もあった。当時ヘレニズム化されていたユダヤ人の間では、「マルコ・ヨハネ」のように二重の名前を使うことは一般的だった。新約聖書のなかでも、彼はマルコと呼ばれたり、ヨハネと呼ばれたり、「マルコと呼ばれているヨハネ」と呼ばれたりしている(「使徒の働き」12章12節)。今日では、第4福音書の著者「ヨハネ」と区別するために、マルコと呼ばれることが多い。
マルコの母はマリヤといい、初期のエルサレム教会で中心的な役割を果たしていた。クリスチャンたちは彼女の家に集まり、集会をもっていた。マルコの父親について『新約聖書』は語っておらず、この家も「マリヤの家」と呼ばれていることから、早くに父親はなくなっていたと思われる。しかし、この家にはロダという女中もおり、エルサレム市内に多数の人々が集まることができるような大きな家を構えていたことから、かなり裕福な暮らしをしていたのであろう。
ペテロが迫害のため監獄に入れられたときも、この家では祈り会がもたれていた(「使徒の働き」12章)。ペテロは解放されるとすぐ、この家に戻って来ている。また、聖書には明言されていないが、「最後の晩餐」が開かれたのも、ペンテコステのときに聖霊が下るのを期待して弟子たちが祈っていた2階座敷も、このマリヤの家だったと言われている。
マルコは最後の晩餐の後、素肌に亜麻布を1枚着ただけでイエスについてゲツセマネの園へ行き、イエスが逮捕されると、亜麻布を脱ぎ捨てて裸で逃げた若者だとも言われている(「マルコの福音書」14章)。自分も逮捕されそうになったからである。
マルコは、後に一緒に伝道旅行をすることになるバルナバの従兄弟でもあった。しかし、彼を直接信仰に導いたのはペテロだったようで、ペテロはマルコのことを「私の子」と呼んでいる。
このようにマルコは、幼いときから身近に教会誕生の出来事を目撃し、初代教会の指導者たちと直接出会っていた。彼のうちには、自然とキリストに対する信仰が植えつけられたのであろう。

マルコの伝道旅行

その後、マルコはバルナバに連れられてアンテオケの教会に行き、パウロとバルナバが第1回伝道旅行に出かけると、それにも同行した。マルコはバルナバの従兄弟であり、エルサレムの様子をよく知っていたからであろう。
一行はキプロス島を通り、小アジヤ(現在のトルコ)南部のペルガに渡った。ところが、マルコはここで一行と分かれ、エルサレムに帰ってしまう。宣教活動のたいへんさに我慢できなくなったからとか、パウロに比べて、バルナバが軽視されていたからとか、いろいろな原因が推測されるが、『新約聖書』はその事情をはっきりと記していない。
いずれにしても、パウロはこのようなマルコを信用せず、2回目の伝道旅行に行くとき、マルコを連れて行くことはできないと主張した。バルナバはマルコを連れて行くつもりだったので、2人は対立し、別行動をとることになった。パウロはシラスを同労者に選び、小アジヤ方面に出かけて行った。バルナバはマルコとキプロス島に渡った。理由は何であれ、ボンボン育ちの2代目クリスチャンのマルコの弱さが出てしまったのかもしれない。
しかし、マルコはこの後も忠実にキリストの教会で奉仕を続けた。パウロも晩年になると、マルコに対する評価を改め、彼を自分の「同労者」として認めるようになった(「コロサイ人への手紙」4章10〜11節)。また、パウロが死を目前にした時期には、弟子のテモテにマルコを連れて来るように頼み、「彼は私の務めのために役立つ人物だ」と評価している(「テモテへの手紙第2」4章11節)。マルコもさまざまな労苦のなかで、人格的にも信仰的にも成長したのであろう。

マルコの晩年

パウロの殉教後、マルコはペテロと一緒にローマにいたことが知られている。マルコのその後の生涯はよくわかっていないが、エジプトのアレキサンドリヤで伝道し、殉教したらしい。ヒエラポリスのパピウスの記録(140年頃)によると、マルコはペテロの通訳として伝道し、ペテロから聞いたことに基づいてイエスの生涯を「マルコの福音書」にしたためたという。キリスト教信仰における新約聖書の重要性を考えるとき、マルコの最大の貢献はこの福音書にあると言ってよいだろう。
(出典:杉本智俊『聖書人物伝 これだけは知っておきたい127人』フォレストブックス, 2013, 164-166p)

聖書人物伝
千代崎秀雄、鞭木由行、内田和彦、杉本智俊、岸本紘 共著
224頁 定価1,800円+税
いのちのことば社