《じっくり解説》ローマとは?

ローマとは?

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ローマ…

([ギリシャ語]Rhōmē)
概観.ローマはイタリヤの首都で,使徒時代にはキリスト教の中心地の一つであった.前4年イエス・キリストが誕生した頃,ユダヤ地方はローマによって任命されたヘロデ大王が統治する半独立王国であった.ヘロデ王の死後,ユダヤとサマリヤ地方を相続していたヘロデ王の息子アケラオは,紀元6年,行政の失敗から王位を追われ,後,彼の領地はローマの直轄領となり,ローマから直接派遣された総督の支配下におかれた.カイザリヤは総督府の所在地である.
イエスの裁判は総督ポンテオ・ピラトのもとで,使徒パウロの裁判はペリクス,およびフェストのもとで行われた.パウロがローマ市民権,しかも生来の市民権所有者であったことから,皇帝に上訴する機会が与えられた.このようにイエス・キリストの福音の歴史とそれに続く使徒たちの宣教史は,ユダヤ地方との関連ばかりでなく,ローマ帝国とも密接な関係にあった.したがって新約聖書を理解するためには,その歴史的背景としてローマの支配の歴史をたどることが重要である.
王政時代.イタリヤ半島を本拠として史上空前の大国家を建設したローマ人は,イタリヤの原住民ではなく北方からの移住民族であった.すなわちインド・ヨーロッパ語族の一派のラテン人が,中部イタリヤのテベレ河岸に定住して都市国家をつくったことから始まった.建国の年は伝説では前753年であるが,実際は前600年頃とされている.北方には小アジヤ系統の文化民族エトルリヤ人,南方にはギリシヤ人が控え,共に強い勢力と,高い文化を持っていたため,ロムルスに始まると言われる7代の王たちは,政治的にも文化的にも影響を受けることとなり,エトルリヤ人の支配下におかれた時期もある.しかし,ついに前6世紀頃,ローマはエトルリヤ人の王を追放して共和政を樹立した.
共和政時代.共和政ローマでは,毎年貴族の中から選出される2人の執政官(コンスル)が政務をとり,元老院が立法機関としての実権を握った.初め貴族が中心の寡頭政治であったが,やがて一般市民が政治的,社会的不平等に対して強い不満を抱き,貴族と争うようになり,前5世紀前半には護民官が設置された.このような一般市民の権利の伸長は,法律の発布という形をとって発達し,前5世紀中頃には「十二表法」が制定され,後,これがローマ法発展の基礎となった.次々に発布される法律によって,貴族と一般市民の平等が確保され,両階級間の通婚も認められ,官職への道も開放されるようになった.一般市民が重装歩兵として国家に寄与したことは,ローマの軍事力をますます強化し,前4―3世紀にかけてエトルリヤ人,サムニウム人,ギリシヤ植民都市等周辺の強豪を次々に征服して,ついに前270年頃半島の統一を完成した.ローマ人は堅忍不抜の精神と分割統治の巧みな政治政策により,このイタリヤ統一を成功させた.
やがてアフリカの有力国家カルタゴとの間に前後3回(前264―241年,前218―201年,前149―146年)にわたってポエニ戦争が行われ,ローマはついにカルタゴを征服した.この間ローマは東方にも手を伸ばし,前2世紀の中頃には東方世界の支配権をも握り,地中海世界の主人公となった.
ローマの世界支配に伴う経済的発展は著しく,東方のアレキサンドリヤをしのぐ世界経済の中心となった.しかし輝かしい領土的発展の内部には深刻な社会問題もあった.政治家や将軍を出した少数の新貴族層(閥族)が重要な官職,地位,富を独占したのに対し,ローマの発展に重要な役割を果たした独立自由農民は戦没したり,支配層(大土地所有者)の経営に圧倒されて没落し,無産遊民となるなど,社会的不平等が増大した.また奴隷制の発展は奴隷労働を過酷なものとし,前2世紀中頃から奴隷反乱が相次ぎ,社会不安の一つとなった.貧富の差の増大により階級対立が激化したこと,東方文化の流入によりローマ古来の質実剛健の気風が破壊され,奢侈文弱の風をもたらしたことなど社会の危機はいっそう深まった.
このような共和政の危機に乗じて,没落農民出身の兵士たちを私兵のように使う将軍が出て,政治にも発言権を持つようになったことから,政治の混乱を助長した.この軍人争覇による混乱は,前60年のカイザル,ポンペイウス,クラッススの第1回三頭政治で一応収拾された.カイザルは間もなく競争者を排除して独裁権を握り,政治の改革に着手したが,彼の行動には東方的な専制政治的傾向があるとされ,共和政の伝統を固執する人々に疎まれ,前44年暗殺された.一個人に権力が集中することを努めて避ける共和政的伝統が前面に打ち出された事件であった.その後オクタヴィアヌスがアントニウスらと第2回三頭政治を始めたが,やがて両者の対立となり,西方ローマの伝統に立ったオクタヴィアヌスが,東方ヘレニズム世界を代表するアントニウスとエジプトの女王クレオパトラの連合軍を,アクティウムの戦い(前31年)で破ることにより,約1世紀にわたる内乱は終結した.この内乱の終結は同時に共和政の終結でもあった.
帝政時代.アクティウムの戦勝によってローマに平和と秩序を回復したオクタヴィアヌスは,前27年1月元老院会議において,「アウグストゥス」(尊厳なる者)の尊称を与えられ,帝政ローマ第1代の皇帝となった(前27年―紀元14年在位).これが新約聖書のルカ2:1に登場する皇帝アウグストである.
彼は内乱鎮圧時に与えられていた大権を元老院にいったん返還し,その上でローマの属州の半分の統治をゆだねられた.後の半分は元老院の管轄とされた.エジプト,メソポタミヤ,アラビヤ,シリヤ,カパドキヤ,ポント,ガラテヤ,パンフリヤなどは皇帝領属州となり,マケドニヤ,アカヤ,クレテなどは元老院領属州となった.
彼の実力と内乱鎮定者としての権威は人々から高く評価され,元老院は改めて文武の要職を与えて事実上の君主とした.しかしこれは皇帝という専制君主的な地位を新たにつくったのではなく,あくまでも共和政的な伝統をもって,彼を「第一人者または元首(プリンケプス)」と呼んだのである.このような元老院との共同統治の形式を採用した政治形態を一般に「元首政」(プリンキパトゥス)と呼んでいる.しかし時代が進むにつれて,「一個人に権力が集中することを努めて避ける」という共和政的原理が排除され,皇帝中心の「帝政」に移行していったが,イエスおよび使徒の活躍した時代は,本来のプリンキパトゥスの原則が生きていた時代であったことは,迫害史を考える上に重要な手がかりとなる.
アウグストゥスに続くティベリウス(紀元14―37年在位)およびクラウディウス(紀元41―54年在位)は官僚制度を強化し,行政組織の整備に努め国家の基礎づくりに貢献した.イエスはアウグストゥス帝のもとに生まれ,ティベリウス帝のもとに十字架刑に処せられ,パウロはクラウディウス帝のもとにほとんどの伝道旅行を終えたのである.これらの創成期の皇帝の努力によって,新しい国家の基礎が固められていたので,カリグラ(37―41年在位)や,ネロ(54―68年在位)のような暴君が帝位についても帝国は安定を保つことができた.1世紀末になると共和政形式はしだいに消滅し,皇帝の独裁政治が強調され,ドミティアヌス帝(81―96年在位)に至って皇帝礼拝が確立された.そして帝政ローマは,ネルヴァ(96―98年在位),トラヤヌス(98―117年在位),ハドリアヌス(117―138年在位),アントニヌス・ピウス(138―161年在位),マルクス・アウレリウス(161―180年在位)の五賢帝と呼ばれた諸帝の時,帝国最大の領土に達した.東はユーフラテス川から,西はブリタニヤ島,南はサハラ砂漠に達する大版図に拡大され,海陸の交通路を用いて帝国内の商業取り引きが活発に行われ,属州の諸都市は繁栄し,インドや中国との貿易も開かれた.ローマの世界支配の思想,ローマ不滅の信仰はこの時代に起こったのである.
五賢帝最後のマルクス・アウレリウスの死(180年)と共に,帝国の政治は乱れ始め,軍隊の横暴な振舞いから「軍人皇帝」が出現するなど,皇帝は軍隊によってほしいままに廃立され政治の混乱を助長した.パックス・ロマーナ(ローマの平和)による奴隷供給の減退は,奴隷労働を基礎としているローマ経済に深刻な影響を与えた.この頃東方には新しくササン王朝ペルシヤの勢力が増し,北方にはゲルマン民族の移動も激しくなり,帝国の存続を脅かした.この帝政の危機を救うため,ディオクレティアヌス帝(284―305年在位)は,権力の分散化を図って帝国を東西に2分し,それぞれに正帝・副帝をおき,プリンキパトゥスの伝統を全く捨てて完全な専制君主制(ドミナトゥス)を敷いた.その後コンスタンティヌス帝(306―337年在位)は帝国を再統一して,首都をビザンティウムに移してコンスタンティノポリスと改名し,官僚制度を確立し,職業,身分を世襲にして社会の秩序を立て,帝政を引き締めようとした.またコンスタンティヌス帝はミラノ勅令を発布してキリスト教を公認し,ニカイア総会議を開いて教義の統一を図り,やがてテオドシウス帝(379―395年在位)は,キリスト教を国教とした.しかし帝国の衰運は阻止することができず,テオドシウスの死後(395年),帝国は永遠に東西に分割され,東ローマ帝国はその後約千年続いたが,西ローマ帝国は476年に滅亡した.
ローマ市.今日のイタリヤ共和国の首都.しかしここでは特に古代のローマ市について扱う.ローマ市は,パラティヌス,カピトリヌス,クィリナリス,カエリウス,アヴェンティヌス,ヴィミナリス,エスクィリヌスの7つの丘を中心に,前600年頃建設された.この都市国家は,前2世紀頃までに地中海域の大国家に成長した.ローマはこの大国家の首都となって以来紀元4世紀の初めまでローマ帝国の首都でもあった.
小さい町から少しずつ発展していったため,曲がりくねった狭い道が多いのは仕方がないが,ローマ人はすばらしい道路網を作り上げたと言える.それはローマ公会所にある黄金の里程標から放射して帝国の各地に至るものであって,幹線道路は永久使用に耐えるように造られていた.こうした幹線道路は帝国の末端にまで及んでいた.「すべての道はローマに通ず」と言われるこれらの主要道路なしには,福音の世界的伝播は不可能であったろう.
ローマ建国の頃は,都市国家がごく狭い範囲に限られていたため,ローマ市の住民がそのままローマ市民であったが,ローマの版図が拡大されるにつれて,植民地の住民にローマ市民権が与えられるようになり,ローマ市の住民とローマ市民とは一致しなくなってくる.ポエニ戦争後の社会変動の結果,独立自由農民が没落して貧民となり,生計を立てるために地方からローマに移り住む者が増加した.共和政末期には,ローマ市の人口は奴隷を含めて約100万にも達したと言われる.
ローマ市の住民は,貴族や資本家など金持ち階級に属する者と,貧民との両極端に分かれる傾向があり,貧者と富者の住居は判然と区別されていた.
帝政に入ってアウグストゥスはローマ市を14区に分類し,各区はさらに265に細分化されていた.紀元64年のネロの時代の大火は,ローマの14地区のうち3地区を破壊し,7地区を部分的に破壊するほど規模の大きいものであった.帝政期の初めの2世紀は,ローマ市は繁栄を続け,人口もさらに増加して,2世紀初頭には140万くらいだったろうと推定されている.そのうち3分の1程度は奴隷であり,残りの大半は自由人であったとされる.当時市民権所有者は全住民の10分の1足らずにすぎなかった.3世紀のカラカラ帝の時,全属州民にもれなく市民権が与えられたことを考えると,パウロ時代の市民権がいかに偉大なものであったかがわかる.
ローマ市には,シリヤ人,ギリシヤ人,ユダヤ人などが帝国各地から,それぞれの宗教と慣習を伴って移住してきていたため,まさに古代最大の国際都市であったと言える.
ローマの文化.ローマの文化は常に先進文化と接触しながら,その刺激を受けつつ発展してきたと言える.すなわち,ローマ人は古くから北イタリヤのエトルリヤ人と南イタリヤの植民地ギリシヤの影響を強く受けた.共和政時代のローマ人は,ギリシヤ文化を忠実に模倣することにとどまっていたが,帝政時代になると,ローマ人は東方文化をよく消化した上で創意を加え,自らの要求に合致した文化を作り出すようになった.特にローマ人の生活環境は,その規模においてギリシヤ人のそれと全く異にしていたため,国家統治に関する文化的欲求が強く,法律学や土木建築などの分野において高い技術水準を示したのが特徴である.
ローマ人は政治,特に軍事にすぐれた民族であったが,学問,芸術の方面ではギリシヤからそのまま受け継いだものが多い.哲学では,プラトンやアリストテレスが達した高い形而上学的思索や精緻な科学的研究よりも,実践的倫理的方面が重んじられた.したがって,ヘレニズム時代のストア学派は,ローマ人の気風によく合致したもので,帝政時代にはセネカや,皇帝マルクス・アウレリウスのような学者が出た.『瞑想録』を著したアウレリウス帝は哲人皇帝として知られている.
科学的方面におけるローマ人の業績は,ギリシヤ人に比べて振るわず,科学上の発見もほとんどない.ギリシヤ人の場合は,その合理的精神が正確な数の観念に発揮され,幾何学にエウクレイデス(ユークリッド),アルキメデスを生み,医学にヒッポクラテスを生んだ.これに対してローマ人は技術的応用の面で見るべきものが多く,壮大な建築や土木事業はよくそれを物語っている.ローマの科学者としては,帝政初期に『博物誌』を著したプリニウスが有名である.歴史学においては,ギリシヤ史家と同様,ローマは『ローマ建国史』を著したリヴィウスと,『年代記』と『ゲルマニア』を著したタキトゥスの両大家を出している.特にタキトゥスの著作は,初期キリスト教徒の実態を知る上で重要な原資料である.
最も独自の発展を遂げたローマ法は共和政初期の十二表法を初め,歴代の法令や慣習法の集積で,2世紀のハドリアヌス帝時代の「ハドリアヌス法典」およびテオドシウス帝の「テオドシウス法典」を集大成したものである.その後6世紀に至り東ローマ皇帝ユスティニアヌスが,法学者トリボニアヌス他100余名の学者を用いて,歴史諸法令を集成させた.これが「ローマ法大全」として,世界諸法律の模範となったものである.
ローマ人は建築と土木事業においてその才能を発揮した.ギリシヤ建築は主として神殿によって代表されるが,ローマ建築では君主の宮殿,公会堂,記念柱,凱旋門,劇場,競技場などの政治的,社会的建造物の発達が著しい.車道の構築,石橋,水道などの土木建築においても東方にない技術を生み出した.
以上のようなローマの政治的,組織的,実践的,視覚的性格は,ギリシヤ的な思索的東方精神に対して,ローマ的なラテン的西方精神として残り,古代教会の発展に多大の影響を与えることになった.
ローマの宗教.ローマ人は,人間生活や自然生活を掌握する多くの神々の存在を信じていたが,それらの神々をギリシヤ人のように人間の姿を持った像として芸術的には表現しなかった.キリスト教が伝来する前に,ローマでは公的生活と国民の宗教生活との間に区別はなく,ローマ人は彼らの礼拝している神々が,返礼として帝国と平和と繁栄を与えてくれると理解していた.実践的行動的なローマ人には,神そのものの性格を哲学的に思索するよりも,神が国家に対してどのように「働く」かが関心事であった.ローマに災害が起こらないように,家ごとに,農場ごとにローマ古来の神々にささげられた祭壇が設けられ,さまざまな形式で家庭礼拝が行われた.ローマでは「神」は,普通哲学的には定義されず,礼拝を守り,ローマの宗教的伝統を維持するかぎり,よいものを与えてくれるものと考えられたのである.
やがて国家の発達と共にこの「ローマの精神」は国家宗教として発達し,個人的救いを第一義的な問題とするよりは,一国家の幸福と安寧を目的とする宗教となった.神々を政治的にも宗教的にもローマの保護者にすえる宗教意識を持つローマ人にとって,皇帝礼拝を政治的宗教として発展させることは容易であった.ローマ人は,ローマにあらゆる偉大なことをなした者として皇帝を賞賛した.しかし一般的に言って,1世紀末までの皇帝たちは自らを現人神として皇帝礼拝を公式に強要したのではなく,むしろ皇帝としての務めを果たすために神性を強調したのである.
ローマは外来宗教に対して寛容な宗教政策をとり,外国の諸民族が守ってきた宗教が,ローマ宗教の依存する規律や慣習,律法や祭儀と調和するかぎり,ローマ宗教の中に吸収する傾向を持っていた.ローマ帝国の版図の拡大と共に次々に伝えられたシリヤのアシュタロテ,エジプトのイシス,ペルシヤのミトラ,小アジヤのキベレ,ギリシヤのデメテールなどの密儀宗教は,極端な祭儀劇に陥らないかぎり認められた.
キリスト教は,ローマ人がかかわりを持ったどの州においても,公認された宗教ではなかった.キリスト教が古来のユダヤ教の一派と見なされなくなると,ローマ帝国の宗教保護政策の外におかれ,非公認宗教として国家の宗教政策から分離されて発展していった.
ローマ帝国とキリスト教.アウグストゥス帝治下に,帝国の一部の西南アジヤにキリスト教が発生し,数世紀のうちにローマ全領域に発展してローマ帝国に大きな影響を与えた.キリスト教の源流はヘブル人の一神教にあり,ヘブルの信仰の後を受けたユダヤ教が,ユダヤ人の民族的悲運の中で偏狭となり,メシヤ待望を高め,後ローマの支配下に入ってますますその傾向を強くしていった.イエスは,独善主義に傾きつつあったユダヤ教を痛烈に批判し,御自分こそ神の子キリストであることを明確にし,それを信じるキリスト教徒こそ真実に祖先伝来の選民としての霊的要素を受け継ぐ者であると宣言した.キリスト教とユダヤ教とが相反するのは,両宗教の歴史的,神学的起源によるのではなく,むしろユダヤ人が根本的にイエス・キリストを神の子として受け入れなかったことによるのである.
キリストの教えがしだいにユダヤ人の間に広まると,キリスト教はもはやユダヤ教の一派と認められなくなり,強烈な民族主義を奉じるユダヤの指導者層であるパリサイ人から異端として憎悪され,迫害が加えられるようになった.
一方ローマは,キリスト教をユダヤ教の一派と見なし,時々起こる騒動を,ユダヤ人の間の嘆かわしい内輪もめと理解して,ほとんど表立った干渉をしなかった.当時ユダヤ教は,ローマ社会において,「容認された無神論者」として「彼らの神を礼拝するための集会の自由,神殿への献金を集める権利,兵役の免除」などの特権が与えられていた.そこで総督ポンテオ・ピラトが紀元30年頃に,ナザレのイエスの十字架刑に関してローマに正式な報告書を送るまで,キリスト教はローマ政府からほとんど注目されていなかった.
使徒たちによる伝道旅行の時代には,ローマ政府のキリスト教政策は固定化されず,キリスト教を受け入れてもローマの政治政策に反する罪とはならなかった.
ネロ皇帝の頃になるとキリスト教をユダヤ教の一派と混同することはほとんどなくなり,キリスト教は恐るべき恥ずべき悪性の邪教であると一般に考えられるようになっていた.それはキリスト教徒が公共の競技場や国家礼賛の儀式に参加することを避け,天地を創造された神以外のいかなる偶像も礼拝することを許さなかったからである.紀元64年の大火に際して,ネロが放火犯であるという説がローマ一帯に広まったため,ネロは人々に嫌われていたキリスト教徒を犯人に仕立てて起訴し,残忍きわまる方法で処罰したのである.しかし,このネロによる迫害は直接キリスト教を非合法宗教と認めたものではなく,またローマ帝国全般に及ぶものでもなかった.この時の迫害でペテロとパウロも殉教の死を遂げたとする伝承が2世紀にはすでに広まっていた.
ドミティアヌス帝の治下に再度勃発した迫害は,ネロ帝による個人的迫害とは性格を異にし,皇帝礼拝を基礎とした国家的迫害となり,広範囲にわたり,規則的で苛酷なものとなった.使徒ヨハネがエペソで捕らえられ,パトモス島に流されたのはこの迫害のもとである.
2世紀に入ると迫害はさらに組織的となり,単にキリスト信者であるという理由だけで罪に問われるようになった.キリスト教は非合法宗教と見なされたが,この頃の迫害は信徒の行動が反抗的と認められた場合に限られていた.トラヤヌス帝が紀元113年に小アジヤのビテニヤとポントの総督プリニウスに答えた書簡の中に「キリスト教徒をことさらに探索するな」と注意したことばから,当時の帝国方針の一端を知ることができる.
しかし3世紀中頃になって事情が一変し,ローマは政治的,経済的,社会的に困難な状態に陥り,ローマ伝来の政策である国家的宗教に頼ることによって,滅びゆくローマの革新を試みようとした.皇帝崇拝の儀式をローマの国民的儀式の信仰と結びつけて,その祭儀と供犠をあらゆる人々に命じ,これによって帝国に対する忠誠の意を表明誓約させようとした.この儀式は249年デキウス帝,続いて258年ヴァレリアヌス帝のもとで最も厳格に行われ,これに加わらないキリスト者は脅迫,拷問され,処刑された.
ディオクレティアヌス帝の治下においては,教会組織の絶滅を目指して,最も組織的に計画された大迫害が起こった.そして東洋的な強力な独裁政治だけが,衰退していくローマを救い得る唯一の道であるとして,前27年にアウグストゥス帝が創始したプリンキパトゥス(皇帝と元老院が主権を分担する制度)に終止符を打った.このような暴君的な帝国では,宗教に対する寛容政策などあり得ず,キリスト信者はかつて受けた迫害の中で最も苛酷な迫害に直面した.
この間,きびしい迫害を受けながら,キリスト教はローマ帝国にとって有用であることを,弁証家,護教家を通して主張し続け,ついにコンスタンティヌス帝に至って,313年ミラノ勅令によって国家公認宗教となり,やがてテオドシウス帝によって国教とされた.
このようにして帝国とキリスト教の結合は完全に成立し,キリスト教は国家の権力で支持された国家宗教となり,帝国は教会内の事件,たとえば教義上の論争や分派の問題にも干渉するようになった.すなわち宗教の問題が常に政治的立場から取り扱われるようになったのである.テオドシウス帝の死後,帝国は東西に2分されたが,東ローマ帝国では皇帝が教会の首長となって教会国家主義の体制を確立し,1453年に至るまで存続した.一方西ローマ帝国は,476年の滅亡後,退廃したローマとの結びつきを離れて,ゲルマン民族を発展の基盤とし,それを強化しつつ新しい結合を築き上げた.すなわちローマ教会の発展である.
〔参考文献〕E・E・ケァンズ『基督教全史』聖書図書刊行会,1957;秀村欣二『岩波講座,世界歴史』3,岩波書店,1970;弓削達『ローマ帝国とキリスト教』(世界の歴史5)河出書房,1968;石原謙『キリスト教の源流』岩波書店,1972;湊晶子『キリスト者と国家』聖書図書刊行会,1962;今来陸郎『西洋史要説』吉川弘文館,1972;W・W・エッティング『カタコンベの教会』聖文舎;Boak, A. E. R., A History of Rome to 565 AD, 1955; Cross, F. L. ed., The Oxford Dictionary of the Christian Church, Oxford; Schaff, P., History of the Christian Church, Charles Scribner’s Sons, 1976.(湊 晶子)

(出典:湊晶子『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

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