《じっくり解説》モアブとは?

モアブとは?

スポンサーリンク

モアブ…

([ヘブル語]mō’ab, mô’āb) ヨルダン川東,死海の東,アルノン川とゼレデ川の間の高原地帯の国土およびその住民.
名称.モアブ人の祖先は,ロトの姉娘が父ロトによって産んだ子モアブである(創19:30‐38).アモン人の祖先ベン・アミとは異母兄弟である.ロトはアブラハムのおいであるから,その子孫モアブ人はイスラエル人と血縁関係にある.モアブが生まれた場所はツォアル近辺の山地で,南モアブに相当する.モアブの名は[ヘブル語]メーアーブ(「父によって」という意味.創19:32,34)ということばと関連づけられており,70人訳は創19:37に「すなわちわが父によって」という説明文を付加している.近親相姦を強調するこれらの表現には,罪に汚れたモアブ人というイスラエル人の見方が反映されているのであろう.
地理.モアブ人のおもな居住地は,首都市キル・モアブ(キル・ハレセテ,キル・ヘレス.イザ15:1,16:7,11)を中心とする海抜1000メートル内外の平坦な高原である.北境はアルノン川,時にはさらに北方40―50キロのモアブ草原を含むワディ・ニムリム,南境はゼレデ川である.西境は険しい断層崖を下って死海となり,東境は死海から40―50キロの砂漠地帯である.四方は天然のすぐれた要塞となっている.モアブの高原は森林がなく肥沃で,トランス・ヨルダン屈指の農業地帯であり,小麦や大麦を産出し,ぶどう栽培に適し,羊ややぎの牧畜が盛んであった.モアブのほぼ中央を南北に「王の道」が走っている.主要な町はメデバ,アル,ディボンなどである.
歴史.現存する最古のモアブ遺跡は新石器時代のメンヒル(石柱)とドルメン(卓石)である.ディボンの遺跡からは早期青銅器時代の住居跡が見つかった.前2200年頃以降に,かなり高度の文明を持った人々が王の道に沿って要塞都市を築いた.旧約聖書は彼らをレファイムの一族でエミム人だと言う(申2:10‐11).エミム人は東方から来たエラムの王ケドルラオメルに征服された(創14:5).前15世紀のエジプト王トゥトメス3世の都市表にはディボンの名が見える.前13世紀のラメセス2世の地誌表にはモアブの名が記されている.前13世紀後半までにはアモン,エドム,モアブの王国が確立していた.モアブ人は国境に強固な要塞を築き自国を防衛した.エル・メデイネーは王の道の要害であり,マハイイは南境の要路を押さえる要塞であった.それらの要塞を通過せずにモアブに入ることは不可能であった.居住地近辺からは消石灰を使ったしっくいでできた貯水池が発見されており,モアブ出土の陶器類はモアブ人が高度の技術文明を持っていたことを立証している.
エモリ人の王シホンはモアブ人と戦ってこれを破り,ヤボク川からアルノン川に至る北部モアブを占領し,シホン王国を建設した(民21:26,29).これは前14世紀頃の北方の民ヒッタイトの大侵入によってエモリ人が南下してきたために引き起こされた戦いであった.イスラエル人は,エドムの地をゼレデ川に沿って東進し,モアブの地を迂回してから北上してアルノン川を渡っている(民21章,33:41‐49).彼らとしては王の道を北上したかったが,モアブ人はこれを拒否した(士11:17).モーセは,ロトの子孫の土地であるゆえにモアブに攻め入ってはならないと神に命じられた(申2:9).このために迂回したのだが,王の道を北上したとする説もある.アルノン川を渡り終えたイスラエル人は,王の道を通過させまいとするエモリ人の王シホンに戦いを挑み,勝利を収めた(民21:21‐31,士11:19‐22).モーセたちはさらに北上し,バシャンの王オグを破り,ヨルダンの向こうの地を征服した(民21:33‐35).イスラエル人がモアブの草原に宿営すると,モアブ王バラクは彼らを恐れ,彼らをのろわせるためにバビロニヤのペトルから占い師(バル)バラムを招いたが,のろいは失敗に終わった(民22‐24章,ヨシ24:9).そこでモアブ人の娘たちはイスラエル人を誘惑し淫乱な宗教儀式バアル・ペオル礼拝に引きずり込んだ(民25:1‐3,ホセ9:10).この危機を救ったのはピネハスである(民25:4‐18).これ以後モアブ人は主の集会から除外された(申23:3‐4/23:4-5,ネヘ13:1).モーセは死後,バアル・ペオルが礼拝されていた山ベテ・ペオル近くのモアブの地の谷に葬られた(申34:6).
士師時代にモアブの勢力は増大し,エグロンがカナンに侵入してエリコを占領し,18年間イスラエルを支配した(士3:12‐14).このモアブの支配を打破したのはエフデである(士3:15‐30).士師時代を背景とするルツ記には,ベツレヘムのナオミがモアブの野へ移住し,息子の妻としてモアブ人を迎えたことが記されている.ナオミはモアブ人ルツと共にベツレヘムに戻り,ルツはボアズと結婚し,ダビデの先祖となった(ルツ4:18‐22,マタ1:5‐16).モアブ人とイスラエル人との関係はこの頃は友好的であったが,一方で,モアブの神々との宗教混交も盛んだった(士10:6).前11世紀末にサウル王はモアブと戦い勝利を収めたが(Ⅰサム14:47),属国とするには至らなかった.ダビデは,サウルに追われていた時に両親をモアブの王にあずけた(Ⅰサム22:3‐5).ダビデの30勇士の中にはモアブ人がいた(Ⅰ歴11:46).ところが,ダビデは即位後モアブを征服して多くのモアブ人を処刑し,モアブを属国とした(Ⅱサム8:2,Ⅰ歴18:2).モアブに対するダビデのこの態度の急変は,モアブ王にあずけたダビデの両親が殺害されたためだったと,ユダヤ教の伝説は伝えている.ソロモン時代,ソロモンはモアブの女をめとり,モアブ人の神ケモシュの礼拝所を築いた(Ⅰ列11:1‐8).ソロモンの死後,モアブはイスラエルの支配を脱却したが,北王国イスラエルのオムリに再度征服され重税を課せられた(Ⅱ列3:4,「メシャの碑石」5行目).イスラエルの王アハブの死後,モアブ王メシャは,国家神ケモシュの神託を受けてイスラエルと戦った(「メシャの碑石」7行目).外敵の侵入に悩まされていたイスラエルの王ヨラムは,南王国ユダの王ヨシャパテとエドムの王の援助を得て南方からモアブに攻め入り,首都キル・モアブを攻略した.この時メシャは長男を城壁の上で全焼のいけにえとしてケモシュにささげた.イスラエル軍は戦闘を中止して引き揚げた(Ⅱ列3:6‐27).この背景にはヨラムがアラム(シリヤ)と戦争していたことや病に倒れたことなどがあったと考えられる(Ⅱ列8:28‐29).「メシャの碑石」(モアブの碑石)はこれを「私(メシャ)は彼とその家(イスラエル)に勝利した.イスラエルは永遠に滅びた」と記している.ここに言うイスラエルはオムリ家のことで(シャルマヌエセル3世の勝利の碑),ヨラムは悲惨な死を遂げて,オムリ王朝は断絶した.メシャ王はメデバを回復したほか,さまざまな都市を再興して要塞化し,公共事業に力を注いだ.こうしてモアブは独立を勝ち取った.
しかし,前8世紀頃からモアブは衰退し始め,前734年にアッシリヤ王ティグラテ・ピレセル3世の支配下におかれた.モアブ王ケモシュ・ナダブはサルゴン2世(前722―705年)に仕えた.エサル・ハドン王(前681―669年)あての手紙には,アッシリヤの首都ニネベの宮殿の建築資材と貢を納めたモアブ王ムスリの名が出てくるが,貢ぎ物が少ない事が指摘されており,モアブの弱体ぶりを物語っている.アッシリヤが前612年にバビロニヤに滅ぼされると,モアブはバビロニヤ王ナボポラッサルの支配下におかれた.こうしたモアブの衰退ぶりはイザ15‐16章やエレ48章に反映されている.ユダ王エホヤキムがバビロニヤ王ネブカデネザルに反旗を翻した時,モアブはバビロニヤ王の命を受けてカルデヤ人らと共にユダを攻めた(Ⅱ列24:1‐2,『バビロニヤ年代記』).前586年,エルサレムがバビロニヤによって陥落した時,そこの住民の多くがモアブの地に逃れ,ゲダルヤがユダの総督となるまでモアブにいた(エレ40:11‐12).前582年,ネブカデネザルはモアブを制圧した(『ユダヤ古代誌』10:9:7).エズラ,ネヘミヤ時代にモアブ人はイスラエル人から敵意の目で見られ(エズ9章,ネヘ13:1‐2),「モアブ人」という名称は「罪人」「よこしまな者」の同義語とさえなった.
前4世紀以後,アラビヤ系民族ナバテヤ人がモアブの地に住み始め,前2世紀から紀元2世紀にかけてナバテヤ王国を築き,栄えた.前1世紀にマカベア家のアレクサンドロス・ヤンナエウスがモアブの地を征服し(『ユダヤ古代誌』13:14:2),3大要塞の一つマケルス(ここにバプテスマのヨハネがとらわれていたと言われる)を建設した(『ユダヤ戦記』7:6:2.参照マコ6:14‐29).
言語と宗教.モアブ語は,ウガリット語やフェニキヤ語,アラム語,アラビヤ語,ヘブル語と近い関係にある言語であるが,まだ十分解明されていない.モアブ人の宗教はカナン人の宗教と注目すべき類似性を持っている.その一端を民23:1‐6に見ることができる.モアブから出土した女神像は母なる女神アシュタロテである.メシャの碑石に名前が出ている「アシュタル・ケモシュ」は多産豊穣と性愛の女神である.バアル・ペオル礼拝は性的淫乱を伴うものであった(民25:1‐3).モアブ人の主神はケモシュである(民21:29).ケモシュは軍神としてあがめられた.男神像には騎乗姿のものがある.モアブ人は後代イスラエル人と違って,神名を口にすることをためらわなかった.祭司制度に関しては不明だが,王が,祭司的権威を持っていたことは確かである.礼拝所は主として丘の上にあった.神々への犠牲には最上の雄羊や雄牛がささげられたが,人身犠牲も行われた.「メシャの碑石」にはアシュタル・ケモシュに人身犠牲としてイスラエル人7千人をささげたことが記されており,メシャ王自身,息子をケモシュに全焼のいけにえとしてささげた(Ⅱ列3:27).ソロモンがイスラエルに導入したケモシュ礼拝は(Ⅰ列11:1‐8),人身犠牲を求める「忌むべきケモシュ」(Ⅱ列23:13)として,ヨシヤの宗教改革時に一掃された.
〔参考文献〕ウェルネル・ケラー『歴史としての聖書』山本書店,1958;チャールズ・F・ファイファー『聖書地理』聖書図書刊行会,1976;Albright, W. F., The Archaeology of Palestine, 1956; Glueck, N., The Other Side of the Jordan, 1940; The Zondervan Pictorial Encyclopedia of the Bible, Zondervan, 1978; The International Standard Bible Encyclopaedia, Eerdmans, 1939; Van Zyl, A. H., The Moabites, 1960.(熊谷 徹)

(出典:熊谷徹『新聖書辞典 新装版』いのちのことば社, 2014)

新装版 新聖書辞典
定価6900円+税
いのちのことば社